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第34回 みんなちがって

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

X 株式会社会議室でのある日の光景。シングルマザーでもある52歳のマーケティング部長が、海外市場進出の企画をテーマにプレゼンテーションをしている。「あのう、質問させてください。」手が挙がる。中国人の社員が巧みな日本語を操り、不明瞭な点を問いただす。「私の意見はこうですが。」自宅からビデオで会議に参加する女性が、車椅子から身を乗り出すように熱弁をふるう。白熱した議論が延々と続く中、一人の男性が立ち上がり一礼をする。「申し訳ありません。これから保育園に娘を迎えに行かないと。」ふと我にかえった部長が腕時計に目をやる。「あら、もう6時前ね。山田さんも、今夜はバイブルスタディがあるんでしょう?」山田さんは頷く。「じゃあ、続きは明日にしましょう。お疲れ様でした。」丸の内を見下ろす高層ビルが薄闇に包まれる中、彼らは口々に「お疲れ様」と言い、それぞれの場へと戻る。

朝の光の中、そんなシナリオを想定する。どのような具体例を用いれば真意が伝わるだろうか、と考えをめぐらせながら。自問自答を繰り返しつつ、日ごと濃さを増す紫陽花に彩られた街を闊歩する。私の傍らで、息子と娘は日本の夏の風物詩ともいえる水泳の授業に大はしゃぎだ。ビルの狭間に立つ小学校で、プールバッグを提げた二人の姿が校門の向こうに消えるやいなや、私は駅へと歩を早める。うだるような暑さの中、窮屈なスーツ姿に肩で息もしながら、東京メトロに揺られる。今日は表参道のオフィス。明日は新宿のホテル。せわしく都内を移動しては、中小企業のオーナーやコンサルタント、弁護士との面談をする。依頼を受けた講演の打ち合わせもある。テーマは、ダイバーシティ・マネジメントだ。昨今の日本の企業社会では、ダイバーシティなる言葉が「多様性」に取って代わり、徐々にではあるが市民権を獲得しつつある。大手の企業であればある程、こぞってダイバーシティの重要性を強調し、その理念をウェブサイトでも力説する。だが、表面的な提唱はさておき、その理念が一般市民にどれほど理解され社会に浸透しているかといえば、はなはだ疑問だ。「ダイバーシティ? そういえば最近、よく耳に挟むようにはなったけれど。」「女性の管理職を増やすってことかね。」「外国人を雇えってことじゃない。」「フェミニズムとの関連があるの?」よく、その手のコメントを受けた。「今日は、アメリカから来た弁護士と会食の機会を持ちました。彼女はダイバーシティ、すなわち女性と外国人の活用を唱えています。」面談をした経営コンサルタントが、後日そんな文章をブログに掲載していたのを読み、困惑したこともある。彼は何を勘違いしたのだろう。「女性と外国人の活用」を訴えた記憶はない。ダイバーシティについて私なりに真摯に見解を述べたつもりだったが、力不足だったかと苦笑をもらし、少しばかり肩を落としもした。

では、ダイバーシティ・マネジメントとは何か?ある企業が、海外市場進出という目標を掲げ新製品を開発するとしよう。より多くの国で、より多くの市民に愛用される製品を世に送り出そうと会社は意気込む。開発の過程で、次のような考慮が必要となるかもしれない。「若年層は関心を示しても、高齢者は見向きもしない」製品であってはならない。「大卒者であれば説明書を読みこなせるが、中卒者には理解し難い」ものであってはならない。「障碍者には使いこなせない」ものであってもならないし、「特定の宗教の信者が不快と感じる」ものであってもならない。すなわち、一定の角度のみから物事を検討するのではなく、複数の角度から包括的に吟味することが必須となる。多種多様の視点を取り入れ、その結果として生み出される独創的なアイデアを源泉に製品やサービスの質を高めるビジネス戦略がダイバーシティ・マネ ジメントである。性別や年齢、人種、民族といった外面的な要素を超え、価値観やライフスタイル、信条、信仰、学歴、経済力といった内面的要素をも含めた上で、多彩な人材を活用することがキーとなる。ダイバーシティ・マネジメントは、雇用差別訴訟のリスクを回避するために法的義務を果たそうという消極的な対策とは一線を画する。また、弱者保護という理念を掲げ、女性や障碍者、高齢者への手を差しのべよう、という社会的正義を土台とした優遇措置とも異なる。グローバル競争に打ち勝つという実務的な観点から多様性を推進するのがダイバーシティ・マネジメントの特長だ。金太郎飴のごとく、どこを切っても現れるのは同じ顔。大学卒業後、入社式で社歌を歌い、朝礼で社訓を唱え、社内結婚をして社宅に住む日本男児。そのような単一的な職場では斬新な発想など生まれにくい。年齢制限を外して積極的に中途採用をしたり、在宅勤務など雇用形態を増やすことにより障碍者や老親介護の責任を担う人への門戸を広げたりと多様な人材を集める必要がある。しかし、集めるだけでは不十分だ。異なった背景を持つ人たちが独自の意見を交換し、時には議論もたたかわせ試行錯誤を重ねながら共に学び合う環境や風土を培うべきである。異質のものがぶつかり合えば、当然ながら摩擦が生じる可能性も高まる。だが摩擦を恐れるがゆえに画一性を追い求めていては、組織の活性化が阻まれるだろう。

「ダイバーシティ? ああ、うちの会社では、女性にも大いに活躍の場を与えていますよ。」電話会議で話した大阪の某企業の人事部長がこともなげに言った。女性管理職の比率など数字も交えて、彼は自慢気に語る。「ダイバーシティは我が社にとって重要なテーマですからね。女性社員の活躍推進には意欲的ですよ。」(ああ、またか。)私は落胆する。女性優遇による男女間格差の是正こそがダイバーシティだと定義づけ、その一環として育児休暇制度の導入などを声高にアピールする企業が目立つ。どうしてこうも女性に焦点を当てるのか。仕事と家庭の両立は母親のみならず父親にとっても大切な課題である。女性を保護の対象として位置づけることにより、「結局、育児や家事の責任を担うのは女」という性別役割分担意識をより深く根付かせることになりかねない。そもそも、育児支援のように、「結婚して子供がいる」従業員を想定したシステムの導入こそがワークライフバランスというのもおかしい。既婚だろうが独身だろうが、子供がいようがいまいが、プライベートを充実させたいという願望は基本的なものだろう。

ワークライフバランスといえば、ある社長からこんな話を聞いた。最近は、「ノー残業デー」なる制度を導入する会社が増加した。だが蓋を開けてみると、ノー残業なる提唱の手前、定時退社はしたものの、こっそり喫茶店などにこもり仕事を続ける社員が少なくないらしい。働きバチ日本人を彷彿とさせるエピソードとして苦笑のひとつももれるが、ダイバーシティという観点からはこうも言える。就労意識やスタイルは十人十色。「私生活を大切にしたい」と定時きっかりに帰宅することを望む人もいる一方で、「仕事に全力投球したい」と深夜残業もいとわない人がいたとしても何ら不思議ではない。また、個々のライフステージによりキャリアの占めるウェイトも変わるため、「今は自分にとって仕事を最優先させる時期」と考える人もいるだろう。会社の指揮の下、全社員が一律的に同じ行動をとるのは不自然だ。「さあ、皆さん、水曜日ですよ。オフィスを出て、趣味なり家族団欒なりを満喫しましょう。」老婆心よろしく一方的に社員の背を押すことは、価値観やライフスタイルの多様性を無視することにほかならない。

シアトル・ベナロヤホールにて、子供たちが参加する青少年オーケストラのコンサート

シアトル・ベナロヤホールにて、子供たちが参加する青少年オーケストラのコンサート

多様性という言葉から、幼稚園児だった息子の手をひき初参加したバイオリン教室のグループレッスンが脳裏に浮かぶ。教室の生徒全員が一堂に集い演奏をするという経験は、個人レッスンを始めたばかりの息子にとっても、親の私にとっても新鮮なものだった。集合場所である某中学校へ足を運べば、下は息子と変わらない年齢のおちびちゃんから、上は堂々とした高校生のおにいさん、おねえさんまで、幅広い年齢層の生徒たちが次々にバイオリンのケースを抱えて現れる。肌の色も人種も多彩だ。黒人もいれば、アジア人も白人もいる。レッスン前の喧騒の中、それぞれに調弦をしたり、ふざけ合ったりする生徒たちをぼんやりと眺めながら、私は考えた。「あそこのティーンエージャー、中国人かな。でも、すっかりアメリカナイズされた雰囲気だし、こっちで育ったチャイニーズ・アメリカンだろうね、きっと。」「あの女の子、色白だし髪も茶色っぽいけど、よく見ればアジア人的な顔立ちをしてる。どちらか片方の親がアジア人なのかしらね。」やがて先生が到着し、ピンと張り詰めた空気の中、練習が始まった。とりあえずは誰もが弾ける曲ということで、「キラキラ星」のバリエーションにより皮切りとなる。指揮者の先生が腕を振り上げ、30人程の生徒が一斉にバイオリンを奏で始める。私は息を飲んだ。個々の「違い」が消え去り、心地良い音色と一体感が部屋全体を包み込む。黒人、アジア人、白人。幼児、小学生、中高生。そんな境界線が瞬時にして消えた。あれから数年後、今もあのハーモニーの余韻が私の心に宿る。互いの「違い」を尊重しながらも、個々が同じ方向に向かい心をひとつにすることによって醸し出される調和感の中、「違い」の存在を忘れる。そんな風に独自性と統一性が共存する組織ひいては社会を創ることはできないものか。次世代を育む社会はそうであって欲しい。「みんなちがって、みんないい。」好きな詩の一節を呟きながら、夏の光にさらされる東京のビル街でダイバーシティについて語った日々を振り返った。

掲載:2012年3月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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