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第12回 東京ダイアリー(4) プリンス通りで

著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

11月 X 日

プリンス通り。この響きはいい。その名に劣らず、魅力溢れる通りだ。閉静なこの並木道を辿るうちに、都心にいながらにして森をさまようような幻想を味わえる。この通りを歩き、永田町と隣接する紀尾井町を散策する。紀尾井なる町名は、紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の頭文字を重ねたものだ。伝統の息吹に溢れるこの町は、「赤プリ」ことグランドプリンスホテル赤阪(紀伊藩の屋敷跡)、ホテルニューオータニ (井伊家の屋敷跡)という二大ホテルに加え、上智大学(尾張藩の屋敷跡)や文藝芸春秋社があることでも知られる。こんな風に書き連ねると、いかにも高級感が漂うが、何のことはない。少し歩けば、お蕎麦屋さんやらバーガーショップやらが軒を重ね、混沌とした下町風情の景色が広がる。そんな喧騒も含めて、私はプリンス通りが好きだ。

プリンス通り

晩秋の香りが漂うプリンス通り

知り合いのご夫婦が子供達をみてくれた黄昏時、一人でプリンス通りを歩き買い物に出かけた。薄闇が舞い降りる時間が忍び寄る。「おせち料理のオーダー、承ります。」豪華な写真入りのチラシが目をひく季節。まばたきをすれば、蝉しぐれが降りかかる8月の東京がすぐそこにあるような気がするのに。時は容赦なく掌からすり抜けていく。コートの襟を立てつつ、それでも足取りは軽い。夫の帰国以来、単独で二児の世話をしつつ勤務を続ける私には、一人きりの時間を堪能する余裕などない。だからこそ、思いがけず贈られた時間を慈しむ。「早く食べて!」「早く片付けて!」「喧嘩をやめて!」「!」で埋められる日々の蓄積から心がほぐされる。そういえば、アメリカではシングルマザーとの出会いがいくつかあった。「まあ、大変ね。」当時は、それぐらいの認識しかなかったことを今になって悔やむ。シアトルに戻ったら、彼女達にもっと優しくありたい。「困った時は声をかけてね。」そんな風には言いたくない。むしろ、こう言いたい。「プレイデートも兼ねて子供達はうちに遊びに来ていいから、独りの時間をうんと満喫してきてよ。 ひとときでも、日常のしがらみから離れてきて」と。

11月 X 日

「覚悟して来た方がいいよ。」渡航準備に終われていた初夏のシアトル、こんなメールが日本の知人より舞い込んだ。「日本はまだまだ働く女性に冷たい国だから。」彼女もまた都心で働くワーキングマザーだ。今、丸の内のビルの狭間でそのメールを思い返し、彼女の言わんとしたことが判るような気もする。「冷淡」とまで言い切れるかどうかはともかく、「男は稼ぐ人、女は家にいる人」という固定観念が未だに大手を振る社会には違いない。小学校もまたしかり。保護者会に食事会、新年会。木曜日の午後3時といった時間帯に、オフィスを抜け出し電車に揺られて学校くんだりへ足を運ぶ余裕などありはしない。「3時間ぐらい平気だから、行ってらっしゃい。会議も、あなたが戻るまで延期しますから」なんぞと背を押してくれる職場があろうものか。(あったら、真っ先に私が応募したい。)来日していた夫と幼稚園の保護者会に出席したことがある。だが、専業主婦が圧倒的多数を占め、何十人もの輪の中で男性は彼が一人だったと記憶している。運動会や学芸会など一握りのイベントを除けば、学校行事の大半は、平日に融通が利きやすい専業主婦(あるいはフリーランスやパートタイムなどの形態で働く人)を対象にしているといっても過言ではないだろう。

なぜ、勤め人でも学校行事に参加しやすいようにしてくれないのか。アメリカの学校での保護者会は夜7時始まりだった。子供をシッターに預け、夫婦揃って肩を並べ参加する姿もよく見た。「いくら夜にしたところで、シッターが普及していない日本だと、結局は親のどちらかが家にとどまることになるじゃない?」そんな反論が上がるかもしれない。だが、ボランティアが交代で面倒をみるなどして子供を教室なり体育館なりに待機させる間、保護者会を行うといった案もある。(私なら、「便乗!」とばかりに嬉々として、紙芝居大会とか、室内球技大会とか、子供が楽しめるイベントの計画を立てるだろう。)いずれにせよ、ちょっとした創意工夫で、フルタイム勤務の親が子供の教育に関わる機会を増やせそうに思える。

「今日は、保護者会なのよ。」妻がかいがいしく皿を洗う傍らで、夫がネクタイを締めながら言う。「後で報告を頼むよ。こっちは忙しくて、それどころじゃないから。」彼はブリーフケースを提げ、駅へと足を早める。子供の頃、ホームドラマで目にした光景が、未だに日本中の多くの家庭で反芻されているということか。こんなのはどうだろう。スーツ姿の妻がトーストを口に運びながら言う。「今日も忙しくなりそう。でも残業を切り上げて帰ろうっと。」エプロン姿でベーコンを焼く夫が振り向き言う。「じゃあ、早目に晩御飯を用意しておくよ。一緒に保護者会に行けるようにね。」そういったシーンも悪くないなあ、と私には思える。だが、子育ては「家内の領域です」と言ってのけ企業社会にどっぷりと漬かる男性の方が「男らしくて素敵」と思う女性の方がまだまだ多いのだろうか。

11月 X 日

「無礼者!」彼の怒鳴る声が響いた。その5月の朝、赤阪仮皇居へと向かう路上で、彼は二頭立ての馬車から引き摺り下ろされ刺殺された。

そんな光景が脳裏を掠める。プリンス通りへの思いが高じて紀尾井町の歴史に関心を抱きインターネットで調べていた最中のことだ。明治11年、元薩摩藩士であり西郷隆盛らと共に明治維新の三傑と称された大久保利通が、紀尾井町で6名の不平士族により暗殺された。この事件は、「紀尾井坂の変」と呼ばれ、付近には大久保の哀悼碑も立つ。何気なく闊歩する街の片隅に、こんな血なまぐさい近代史の断片が忍んでいたのだ。

「滝廉太郎を偲ぶ会」のオープニングで勇ましく太鼓を叩く英国大使館の有志

我が千代田区は乾いたアスファルトの世界に見えるが、ビルがひしめくビジネス街のそこここには江戸城(現在の皇居)をはじめとして、歴史の香りが色濃く残る。たとえば、天気の良い初秋に私達親子がお弁当を抱えて遊びに出かけた桜田門。重要文化財に指定された、皇居の内堀にあるこの門は、大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起きた場所である。また、娘が先生やお友達と外遊びに出かける東郷公園(正式名は東郷元帥記念公園)。遊具が豊富で娘が大好きなこの公園は、日本海海戦の勝利により世界的名声を獲得した大日本帝国海軍の軍人、東郷平八郎の私邸跡である。更には、この界隈に、「荒城の月」で名を馳せる作曲家、滝廉太郎が住んでいた。肺結核により23歳で夭折した彼の名曲の多くは、この地で誕生したのだ。10月には、地元町会主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」が開催され、息子もサンシャイン・キッズなる少年少女合唱団の一員として、「お正月」や「鳩ぽっぽ」を披露した。滝廉太郎の「花」には、私自身の思い入れも深い。21歳の夏、青年平和会議に出席したドイツで、日本文化紹介の一環として10人ほどの同胞と共に舞台に立ち、浴衣や法被を着て歌ったのが、「春のうららの隅田川」で始まる、あの瑞々しい曲だった。まさか、我が子がその作曲家の母校で学び、彼を偲ぶ会で歌うことになろうとは。「もういくつねると、おしょうがつ。」この季節になると必ず口をつく馴染み深いメロディを、今年は更に深い想いを込めて口ずさむことだろう。教科書でしか馴染みのなかった人物とのささやかな接点を発見できるのも、東京で暮らす喜びのひとつである。歴史の重みを肌で感じる時、セピアがかった世界が色彩を帯び、静止した人物や時間に息が吹き込まれ、小さなドラマが心の中で誕生する。反面、歴史を知れば知るほど、時の流れにさらされ泡のごとく消え去った無数の命を思わずにいられず、空しさが募る。そして、悟るのだ。人は誰もが刹那の人生の旅人だと。

12月 X 日

きりりと肌を刺す冷気の中に、郷愁をかきたてる微かな匂いを嗅ぎ取る。家の裏にある高校からほとばしる運動部のかけ声。角の珠算教室に群がる子供達。家々の台所から漏れる煮物や揚げ物の匂い。そんな夕暮れ時があった。ひとつ、またひとつと零れ落ちる記憶の断片に、遠い目をしながら師走のプリンス通りを歩く。「帰りたい。」切実な叫びを湛えたメールが友人から届いた。「東京って、いいよね。あなたが羨ましい。」シアトルに住み10年を越える彼女はアメリカでのキャリアも積み、ネイティブの上をいくのではと舌を巻く巧みな英文でメールを書く。結婚も育児もアメリカで経験し、海外暮らしが板についたと傍目には思われる彼女にして、「帰りたい」を繰り返す。

「日本に来てよかった。」「やっぱり、アメリカに帰りたい。」息子と娘は、常時その二つを往ったり来たりしている。「日本の学校の給食には、きなこ揚げパンが出る。」「日本には、キティちゃんのおうち(多摩市の「サンリオピューロランド」で、ハローキティだのシナモンだのサンリオのキャラクターが歌って踊るテーマパーク)がある。」 だから日本は素晴らしい国だ!という結論にいともあっさりと到達するかと思いきや、陰鬱な表情でこう呟く時もある。「日本ではチェスを一緒にする相手がいない。」「日本の駅には階段が多過ぎて足が痛い。」そこで、「ママ、シアトルに帰ろうよ」とせっつかれる。子供の小宇宙は白黒が極めて明確だ。むろん、大人になると、そう単純明快に答えは出ない。だから私も、プリンス通りを歩きながら逡巡する。

帰りたい。華やいだ季節の中で、その想いを深める人は多いかもしれない。このシーズンはえてして人を感傷的にさせる。でんとそびえ立つツリーを見上げ、心躍らせる人もいれば、寂寥感を募らせる人もいる。特に海外に居を構えて久しい日本人にとっては、望郷の念が強まりがちな時期といえよう。シアトルの空の下、ダウンタウンを彩るイルミネーションに照らされながら、あるいはウエストレイク・センターの買い物客の波に呑まれながら、重い心を引き摺る人もいるに違いない。私自身は、一時的にせよ帰るという選択をした。いや、待てよ。私は本当に「帰った」のか?「日本とアメリカ、双方が私の帰る国です。国際結婚をしたお陰で、私の世界は拡がりました。」コスモポリタンを気取り、そう声高に宣言できたらどんなに爽快だろう。だが、正確に言えば、私は帰る国をとうに喪った根無し草なのかもしれない。(ただ一つ言えるのは、「自分とは異なるもの」を許容しやすいアメリカの方がずっと風通しよく生きられるということだ。)根無し草なる言葉には悲壮感がつきまとうが、当の本人はあっけらかんとしている。私は思う。解き放たれた、と。そう、帰る国を喪失して、私は空に解き放されたのだ。先のことはわからない。不安を抱きながらも、未知の大海原を越えていくしかない。天空の遊泳は、国境の枠組を超越した世界の美しさを悟らせてくれると信じながら。

プリンス通りを真っ直ぐ行くと、新宿通りなる大通りに出る。その通りにあるスターバックスでエスプレッソを手に腰をおろし、ひとときシアトルの香りに包まれる。「東京って、スタバがたくさんあるだろう。」そう自慢げに言った友人に、私は笑って答えたものだ。「あのね、シアトルとは雲泥の差よ。」そして身を乗り出し、パイク・プレース・マーケットで人気を集めるスターバックス第一号店についてひとしきり話した。ついでとばかりに、カメラを構えた観光客を釘付けにするマーケット内の魚屋も、身振り手振りで描写する。歌うように合言葉を交わしながら、店員同士が巨大な魚をいとも簡単にポンと投げ合う技を披露する名物の店。懐かしいざわめきと歓声が蘇り、胸が熱くなる。アメリカ人でもなければ、日本人でもない。私は、単なるシアトルっ子になったのだろうか。そう、シアトルこそが私の心の故郷なのだ。

ラテを飲み干し、街灯に照らし出される街をガラス越しに眺める。「駅の階段のせい」で足が痛いと性懲りもなく口を尖らせては、「わたしはえいごじん(アメリカ人)。シアトルにかえるの」と頑強に主張する娘。そんな彼女が、ピューロランドやペコちゃん(不二家)のケーキ屋以外にも日本には素敵なところがあるのだと思ってくれるよう、うんと楽しいお正月にしよう。白いマフラーをきつめに首に巻きつけ、再びプリンス通りへと足を踏み出した。

「東京ダイアリー」のブログ版もご覧ください。 >> www.lovelindy.wordpress.com

掲載:2009年12月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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