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第49回 5分間のエメラルド・シティ:スターバックスへの想い (1)

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水無月のマーケット

大道芸人のバイオリン演奏が店頭で繰り広げられるスターバックス第一号店。

大道芸人のバイオリン演奏が店頭で繰り広げられるスターバックス第一号店。

「シアトルに住んでいました。」 日本で自己紹介する時、以前はこう付け加えていた。「イチローのシアトルです。」 ところが、私が日本に居を移してまもなく、当のイチロー選手が移籍し、くだんの枕詞を使えなくなった。そこで、新たな枕詞の登場である。「スターバックス発祥の地、シアトルです。」 そして、ちょっぴり自慢気に語るのだ。時には、身振り手振りを交えて。「あのね、パイク・プレース・マーケットという市場があるんですよ。そこにオリジナル・デザインのロゴを掲げた世界最初のスターバックスがあるんです。私も、その界隈をよくぶらついていました。」「でも、何度その第一号店の前を通っても、すごい人だかりで。結局、一度も中に入らないまま、すごすごと引き帰してましたっけ。」そう語りながら、思い出す。タンブラーか、マグカップか、中身は知らぬが、掘り出し物が入った袋を手に、ほくほく顔で店を後にする観光客。店頭に陣取り、アカペラでゴスペルを歌う大道芸人のグループ。彼らに手拍子を打ったり、カメラを向けたりする観衆。その光景を思い描く瞬間、予想外の大雪警報に人々が怖気づく東京の空の下に立ちながらも、西海岸の初夏の風が頬を撫でるような気さえする。春から夏へと季節が疾走を始める頃のシアトルが、私は一番好きだった。水無月。そんな古めいた表現さえ新鮮に響く6月。まばゆい光が木々の間から矢を放つ頃。パイク・プレース・マーケットは、その季節の躍動感が絵になリ華やぎを増す場所だった。そういえば、店員の手から放たれた魚が宙を舞う名物魚屋の前で、よくストローラーを停めては、幼子と共に飽きもせず、その「芸当」を鑑賞したものだ。観光客の歓声や拍手の渦が、かすかに耳を掠めるかに思える。かつては日常に溶け込んでいたマーケットも、今や海の彼方。遠い目をしながら、有楽町の高架下を歩く。初老のサラリーマンが、買い物袋を提げた女性が、フリーター風の青年が、無表情に通り過ぎていく。夕暮れ時の寒空を背景に轟音をとどろかせ、山手線の電車が頭上を走り抜ける。春は、まだ遠い。

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