MENU

第50回 5分間のエメラルド・シティ:スターバックスへの想い (2)

  • URLをコピーしました!

むろん、すべてのアメリカ人バリスタがフレンドリーに話しかけてくる訳ではない。機械的な応対に徹する人も、無表情の人も、中にはいる。そもそも、「アメリカ人は皆こうだ」、と十把一絡げにすることにより、移民大国・アメリカを織り成す文化の多彩さから目を逸らすようなものだ。それでも、日本に居を構えた私が海の彼方からアメリカを想う時、こんな記憶が蘇る。ロースクール卒業後、連邦裁判官のもとで働いていた時だ。裁判所のエレベーターの中で、見知らぬおじさんが豪快に笑い出した。「今日はさ、Pay Day Friday! まったく、これが嬉しくて働いてるってもんだよね。」その何年後だろう、近所のスーパーで食料品を買い支払いをしたレジでの会話だ。おそらくは50歳、いや55歳に手が届こうかという店員が呟いた。「今日は夕方にシフトが終わったら、ガールフレンドとデートなんだ。」エプロン姿が不釣合いにも映るフットボールの選手のような大男が、心なしか頬を紅潮させた。その初々しさが微笑ましくもあり、こちらまでニンマリとした。孫がいても不思議ではない年齢の男性が、シフトを終えた途端、そのエプロンを放り投げ、口笛を吹きつつハンドルを握り、恋焦がれる女性のもとへと車を走らせる。給料日のささやかな喜びだろうが、デートを前にときめく恋心だろうが、赤の他人をつかまえて、「いい年」をした大人が自分の中の「茶目っ気」を瞬間的にさらけ出すことができる。Small talk が日常の風景に溶け込むアメリカは、私にとって涼風が吹き抜ける場所でもある。膝小僧に穴の開いたジーンズで芝生にゴロンと横になり、大空を仰ぎ見つつ歌を口ずさむ。それがまるっきり音程の外れた歌なのだが、周囲の人間が嘲笑するでも口を尖らせるでもなく、のほほんと当の本人は歌い続ける。それが私の中にあるアメリカ文化のイメージでもある。

子供たちと私が大好きだった、フェリーから見るシアトル・ウォーターフロント

子供たちと私が大好きだった、フェリーから見るシアトル・ウォーターフロント

客を前に、自分の恋愛をネタに喋るような店員は、日本ではお目にかからない。そもそも、small talk 自体が浸透していない社会である。こじんまりとした居酒屋あたりだと、常連客を前に、「お前さん、ちょっと痩せちまったんじゃないかい?失恋でもしたのか?」などとカウンター越しに軽口をたたく店員がいてもおかしくないだろう。だが、スターバックスしかり、ドラッグストアしかり、書店しかり、初対面の客を前にして、「あっ、もうすぐ6時。このシフトを終えたら、私、彼氏と表参道で待ち合わせなんですよう」と顔を赤らめる店員さんなどいない。いたら、さぞ日本も楽しくなるだろうなあ、なんて考えをめぐらせるのは、おそらく私ぐらいのものだろう。(大真面目な話、私が客なら、「それは、ごちそうさま。夜の表参道って、カップルが絵になる場所なのよねえ。羨ましいなあ」といったコメントを返し、会話のキャッチボールを楽しむだろう。)

1 2 3 4 5
  • URLをコピーしました!
目次