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第55回 無言のメッセージ

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(2)次世代に語り継ぐ平和への想い:長崎への平和使節

戦後70年の重みがずしりと感じられる日本の夏。アメリカと日本、二つの国を母国として生まれ育ってきた我が子らがこの8月に日本にいるという事実を、単なる偶然と片付けることなど、私にはできなかった。息子に聞いた話を思い出す。

彼が5年生の時シアトルで通っていた学校での社会の授業だ。「アメリカが広島と長崎に原爆を投下したことをどう思うか? Was it good or bad?」教師が投げかけた質問に基づき、クラスが二つのチームに分かれディベートをしたという。Good のチームに入ることを選んだ級友の方が多かったそうだ。「原爆投下は、戦争の終結を早めた。」アメリカ人の級友の過半数が、そう頑強に主張したらしい。昨年の冬休み、私たち家族は広島へ旅行し、戦争の軌跡を辿った。「ぼくの国が、ぼくの国とたたかったんだよね。」戦艦大和のモデルを目前にしながら、ポツリと呟いた息子の表情が忘れられない。

今度は、彼を長崎に送りたい。私の中に声が沸き上がった。これは、二つの国を背景に生きていく彼に、母親からの無言のメッセージでもある。

作文と面接の選考過程を経て使節団の一員に選ばれた息子は、強行スケジュールとの格闘を強いられた。北海道への家族旅行から夕方に帰京、翌日の早朝から、今度は九州へと飛ぶ羽目になったのである。それでも彼は元気に飛び立ち、2泊3日の長崎滞在中、使節団員としてのスケジュールをこなしていった。うだるような暑さの中、約6800人の被爆者や遺族らと共に平和祈念式典に参列。(今年は、過去最多となる75カ国の代表が出席したという。)他にも、原爆落下中心地や原爆資料館、二畳程度の小さな「家」の病床から平和を訴え続けた永井博士のお墓などの視察に加え、被爆体験者であり語り部でもある羽田麗子さんとの交流など、短期間ながらも充実した内容のプログラムだった。さらには、祈念式典で全世界に向けて平和宣言をした田上富久長崎市長を訪問、意見交換をするというかけがえのない機会にも恵まれた。

田上市長は、平和宣言でこう呼びかけた。

「若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなた自身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。」

この言葉に大きく頷きながら、私は改めて「戦後70年」が持つ意味を噛み締めずにいられなかった。原爆の大惨事を経験した方々が高齢化を辿るという事実は、社会全体の記憶が風化しつつあるということにも繋がる。次世代へと語り継ぐことにより平和のバトンを託す責任が私たちにはあるのだ。いつの日か、もうひとつの故郷・アメリカの土を再び踏む息子もまた、その責任を担うのである。

以下、息子自身が書いた作文「未来へのメッセージ」から、ごく一部ではあるが抜粋したい。

私は、日米のハーフで、アメリカで生まれ育ちました。(中略)歴史の授業では、「シーッ」と先生が言い、太平洋戦争の説明を始めました。まずは、時間をかけて真珠湾攻撃について説明をした後、軽くミッドウェー海戦にふれて、最後に原爆について話しました。しかし、あまりにも物足りません。原爆がもたらした被害については、”The cities were devastated” (「それらの都市は、破壊されました」)だけでした。何万人の死亡者があったか、投下直後の状態がどうだったかなどについては、一言もありませんでした。

実際に長崎から帰ってきた後、アメリカの友達に今通っている学校で使っている歴史の教科書に広島と長崎について、どういう内容が書かれているか、メールで聞いてみました。”There were no specifics on the bombing of Nagasaki. It just said that it was bombed alongside Hiroshima.” (「全く細かいことは書かれていなくて、長崎が広島と一緒に原爆を投下されたとしか説明がなかった」)という返事でした。原爆は何万人もの罪のない人々の命を一瞬にして奪ってしまうことを、アメリカ人はよく理解していません。

核兵器がない世界を実現するためには、まずは世界中の人に広島と長崎で起こったことを詳しく伝える必要があると思います。長崎の市長さんも、同じようなことをおっしゃっていました。現在は、長崎に投下されたものの数千倍も威力がある水素爆弾という核兵器が何千発も存在しています。長崎で起こった被害の数千倍と言われると、想像さえできません。人間がこれ程の力を持つものに手を出してよいのかが問われます。しかし、この現実が他国では十分に理解されていません。(中略)「もう広島や長崎の被害を繰り返したくない」という気持ちを持つのが、世界中のごく一部の人でしかないようではいけません。またどこかで戦争が始まり、「核兵器を使えば勝てる」と思う人が同じ惨事を起せば、今まで被爆者、平和活動家、平和使節団のメンバーなどが積み重ねてきた全ての努力が、無駄になります。

私はアメリカへの帰国後も、平和への必要性を可能な限り多くの場で周りの人に伝えていきます。アメリカの学校で受ける教育が不十分だったら、自分でそれを補い、「原爆は使ってよい」といった不合理な考え方を徹底的に直そうと努力します。原爆については、ひとつしか「正しい」考え方がありません。地球全体が、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を守るようになるまで安心してはいけません。

長崎市平和公園内にある石碑に込められた叫び。

長崎市平和公園内にある石碑に込められた叫び。

さらさらと指の間から零れ落ちる砂のように、今年もまた足早に過ぎ去った夏。「運動会の練習が始まったよぉ。リレーの選手になるんだぁ。」「ほらほら、あの PTA のプリント。ママ、まだ提出してないよね?どうして、いつも忘れちゃうの?」初秋の匂いが日一日と濃くなる東京の空の下、都心の狭いマンションに子供たちの声が響く。新たな季節に向かって、彼らは駆け出した。夏の体験を経て、二人はそれぞれに何かを学びとり、成長の糧としてくれただろうか。母からの無言のメッセージを受け止めてくれただろうか。そうであって欲しい。祈るような気持ちで、彼らの背を見つめる。海外で子育てをする方々にも、是非、夏の一時期を利用して帰国し、親子で日本の文化や歴史を体感する時間を創って欲しい。その時間の蓄積が、我が子の未来にもたらす意義は計り知れない。私はそう信じている。

掲載:2015年9月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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