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第55回 無言のメッセージ

著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

夏休みに家族で訪れた北海道・トマムの散歩道。

ひとつの夏が駆け抜けた。ラジオ体操も、お祭りも、そして北海道への家族旅行も、絵日記の中で次第に色褪せていく情景のように、記憶の奥に閉じ込められてしまった。「日本の夏って、暑過ぎるよねー。」肩で息をしては、シアトルのすがすがしい夏空を脳裏に描き口を尖らせていた私なのに。今では、新たな季節の到来に寂しさを感じるのだから、なんとまあ勝手なものだ。外に一歩踏み出すたびに全身に降り注いだ8月の光や、耳を刺すかのように力強く響いた蝉の大合唱が恋しく思われてならない。

アメリカ在住の読者の方々、特に子育てをされる方々は、どのような夏休みを過ごされただろうか。国際結婚や駐在などで海外暮らしを余儀なくされつつも、我が子には日本語や日本文化との接点を維持させたい。そんな親心から、日本に里帰りをした家庭も少なくないだろう。「もうひとつの母国・日本」への想いを馳せ、子供にもその想いを伝えたい。そんな親心は、シアトルに限らず全米各地の日本人コミュニティに共通する願いだろう。そして、3ヶ月もの長期休暇に恵まれるアメリカだからこそ、その時期を最大限に活用した一時帰国により、日本でも学びの機会を創ろうと試みる家庭も多い。今回のコラムでは、そのような方々に少しでも参考にして頂けるように願いつつ、我が家の体験について書きたい。夏休みの体験を通して親が子に贈るメッセージとは? 根底に流れるのは、このテーマである。

私は、active learning(体験を中心とした能動的学習)を強く支持している。残念ながら、日本の学校では、「先生が講義をしながら板書する事柄を、生徒が黙々とノートに写す」方式の受身の授業が主流を占め、息子と娘が通う公立校でも例外ではない。だからこそ、せめて夏休みには、本人が興味を持てることを中心に主体的な学びを体験させてやりたい。そんな願望が私の中で膨れ上がった。

もっとも、アメリカに比べると、日本の夏休みは40日間と短い。宿題の量も多いし、中学生の息子の場合には、剣道部での練習や合宿に費やす時間も入る。その上、今年は、私の母も招待して総勢5人で北海道に1週間の滞在をする予定を立てていたから、残る時間は限られた。元来、アメリカに比較すればサマープログラムの数や種類は極めて限定される日本。(塾の夏期講習は目白押しなのに、皮肉なものである。)そのような環境でも、私は子供にとって有意義な学びの機会を探すのに懸命だった。

その結果、娘は、三井物産主催の「サス学(サステナビリティ学)」アカデミーに挑戦。一方、息子は、東京弁護士会のジュニアロースクール(中高生を対象とした模擬裁判などのプログラム)に加え、平和使節団の一員として長崎視察旅行に参加した。文章やプレゼンテーションを通した自己表現が好きな娘。そして、時事問題への関心が深く弁護士志望でもある息子。親による一方的な押しつけではなく、子供たち自身が心から楽しいと思ってくれるものでなければならないと考えた。当コラムでは、「サス学」アカデミーと平和使節団から子供たちが得たものに焦点を当てて紹介したい。

(1)持続可能な未来を共創する探究学習の場・「サス学」アカデミー

「一生いたかった!」残念極まりないといった表情を覗かせながら、今日も娘が言う。「あれが本当の学校だったら、いいのに!」 三井物産主催による全5日間のワークショップに連日嬉々として通っていた娘。7月下旬、各地から集まった25人の小学生(4~6年生)が、持続可能な未来の共創を目指す全5日間の「サス学」アカデミーに参加した。

ちなみに、「サス学」は三井物産の登録商標である。未来の担い手である子供たちが持続可能(サステナブル)な未来を創る力を育むための学びを、当社では「サス学」と名づけている。「サス学」では、物事を「ときほぐして編み込む」という考え方を重視しており、普段見慣れたものや、よく知っていることを一度ときほぐし、「自然にやさしい」「お年寄りに役立つ」「テクノロジー」といった別のアイデアと繋げて編み込み、新しい価値を創造する。地球温暖化や高齢化などを自分たちの課題として考え、さまざまな角度から解決策を見つけていくことを目指す。2日目には、「未来につながる仕事を学ぼう」というテーマのもと、マレーシアのメディニ地区で近未来のスマートシティ(環境配慮型都市)開発に取り組む三井物産の社員二人が、現地からウェブカメラを通して子供たちの質問に答えてくれた。3日目と最終日の5日目には、未来の仕事そして未来の都市について、個人ならびにグループでのプレゼンテーションが行われた。プレゼンテーション発表会は保護者も見学できるため、私も上京してきた母と共に足を運んだ。

「サス学」アカデミーで、娘のチーム「スペースサイエンス」が作った未来都市についてのボード

次世代育成という名目で幾多の日本企業が学校訪問をして行う「出張授業」では、ゲスト講師がレクチャーをするのが一般的パターンだ。「サス学」アカデミーはそれとは一線を画して、5日間という一定期間を要するプログラムであり(もっとも、5日はアメリカのサマープログラムと比較すれば長い部類には入らないが、日本では稀有らしい)、その恩恵は大きい。持続可能な未来の実現というグローバルなテーマを、インプット(学ぶ)とアウトプット(伝える)の両面から、より深く掘り下げて探究することが可能になるからである。

プレゼンテーション発表会に足を運ぶと、子供たちの笑顔が明るく、心から満喫している様子が空気を通じて伝わってきた。シャイだとばかり思っていた娘も、「地球温暖化が進んでも快適、世界中の人が集まり仲良くなれる」Ocean Park(海中テーマパーク)の開発について、予想より堂々と話していた。他にも、「超物流センターシステム構築」や「グローバル農家」など、次々に楽しい案が飛び出した。次世代を担う彼らが成長した時、それぞれが築き上げる世界へと夢が広がる。皆の澄んだ瞳が映し出す未来に、ワクワクとした気持ちが溢れ出した。

(2)次世代に語り継ぐ平和への想い:長崎への平和使節

戦後70年の重みがずしりと感じられる日本の夏。アメリカと日本、二つの国を母国として生まれ育ってきた我が子らがこの8月に日本にいるという事実を、単なる偶然と片付けることなど、私にはできなかった。息子に聞いた話を思い出す。

彼が5年生の時シアトルで通っていた学校での社会の授業だ。「アメリカが広島と長崎に原爆を投下したことをどう思うか? Was it good or bad?」教師が投げかけた質問に基づき、クラスが二つのチームに分かれディベートをしたという。Good のチームに入ることを選んだ級友の方が多かったそうだ。「原爆投下は、戦争の終結を早めた。」アメリカ人の級友の過半数が、そう頑強に主張したらしい。昨年の冬休み、私たち家族は広島へ旅行し、戦争の軌跡を辿った。「ぼくの国が、ぼくの国とたたかったんだよね。」戦艦大和のモデルを目前にしながら、ポツリと呟いた息子の表情が忘れられない。

今度は、彼を長崎に送りたい。私の中に声が沸き上がった。これは、二つの国を背景に生きていく彼に、母親からの無言のメッセージでもある。

作文と面接の選考過程を経て使節団の一員に選ばれた息子は、強行スケジュールとの格闘を強いられた。北海道への家族旅行から夕方に帰京、翌日の早朝から、今度は九州へと飛ぶ羽目になったのである。それでも彼は元気に飛び立ち、2泊3日の長崎滞在中、使節団員としてのスケジュールをこなしていった。うだるような暑さの中、約6800人の被爆者や遺族らと共に平和祈念式典に参列。(今年は、過去最多となる75カ国の代表が出席したという。)他にも、原爆落下中心地や原爆資料館、二畳程度の小さな「家」の病床から平和を訴え続けた永井博士のお墓などの視察に加え、被爆体験者であり語り部でもある羽田麗子さんとの交流など、短期間ながらも充実した内容のプログラムだった。さらには、祈念式典で全世界に向けて平和宣言をした田上富久長崎市長を訪問、意見交換をするというかけがえのない機会にも恵まれた。

田上市長は、平和宣言でこう呼びかけた。

「若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなた自身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。」

この言葉に大きく頷きながら、私は改めて「戦後70年」が持つ意味を噛み締めずにいられなかった。原爆の大惨事を経験した方々が高齢化を辿るという事実は、社会全体の記憶が風化しつつあるということにも繋がる。次世代へと語り継ぐことにより平和のバトンを託す責任が私たちにはあるのだ。いつの日か、もうひとつの故郷・アメリカの土を再び踏む息子もまた、その責任を担うのである。

以下、息子自身が書いた作文「未来へのメッセージ」から、ごく一部ではあるが抜粋したい。

私は、日米のハーフで、アメリカで生まれ育ちました。(中略)歴史の授業では、「シーッ」と先生が言い、太平洋戦争の説明を始めました。まずは、時間をかけて真珠湾攻撃について説明をした後、軽くミッドウェー海戦にふれて、最後に原爆について話しました。しかし、あまりにも物足りません。原爆がもたらした被害については、”The cities were devastated” (「それらの都市は、破壊されました」)だけでした。何万人の死亡者があったか、投下直後の状態がどうだったかなどについては、一言もありませんでした。

実際に長崎から帰ってきた後、アメリカの友達に今通っている学校で使っている歴史の教科書に広島と長崎について、どういう内容が書かれているか、メールで聞いてみました。”There were no specifics on the bombing of Nagasaki. It just said that it was bombed alongside Hiroshima.” (「全く細かいことは書かれていなくて、長崎が広島と一緒に原爆を投下されたとしか説明がなかった」)という返事でした。原爆は何万人もの罪のない人々の命を一瞬にして奪ってしまうことを、アメリカ人はよく理解していません。

核兵器がない世界を実現するためには、まずは世界中の人に広島と長崎で起こったことを詳しく伝える必要があると思います。長崎の市長さんも、同じようなことをおっしゃっていました。現在は、長崎に投下されたものの数千倍も威力がある水素爆弾という核兵器が何千発も存在しています。長崎で起こった被害の数千倍と言われると、想像さえできません。人間がこれ程の力を持つものに手を出してよいのかが問われます。しかし、この現実が他国では十分に理解されていません。(中略)「もう広島や長崎の被害を繰り返したくない」という気持ちを持つのが、世界中のごく一部の人でしかないようではいけません。またどこかで戦争が始まり、「核兵器を使えば勝てる」と思う人が同じ惨事を起せば、今まで被爆者、平和活動家、平和使節団のメンバーなどが積み重ねてきた全ての努力が、無駄になります。

私はアメリカへの帰国後も、平和への必要性を可能な限り多くの場で周りの人に伝えていきます。アメリカの学校で受ける教育が不十分だったら、自分でそれを補い、「原爆は使ってよい」といった不合理な考え方を徹底的に直そうと努力します。原爆については、ひとつしか「正しい」考え方がありません。地球全体が、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を守るようになるまで安心してはいけません。

長崎市平和公園内にある石碑に込められた叫び。

さらさらと指の間から零れ落ちる砂のように、今年もまた足早に過ぎ去った夏。「運動会の練習が始まったよぉ。リレーの選手になるんだぁ。」「ほらほら、あの PTA のプリント。ママ、まだ提出してないよね?どうして、いつも忘れちゃうの?」初秋の匂いが日一日と濃くなる東京の空の下、都心の狭いマンションに子供たちの声が響く。新たな季節に向かって、彼らは駆け出した。夏の体験を経て、二人はそれぞれに何かを学びとり、成長の糧としてくれただろうか。母からの無言のメッセージを受け止めてくれただろうか。そうであって欲しい。祈るような気持ちで、彼らの背を見つめる。海外で子育てをする方々にも、是非、夏の一時期を利用して帰国し、親子で日本の文化や歴史を体感する時間を創って欲しい。その時間の蓄積が、我が子の未来にもたらす意義は計り知れない。私はそう信じている。

掲載:2015年9月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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