
ワシントン大学を卒業後、異業種での仕事を経て、母親の菅沼愛子さんが1992年にワシントン州で初めて日本人が設立したワシントン州公認不動産会社・宏徳エンタープライズ不動産会社に入社した菅沼秀夫さん。現在は2代目CEOとして住宅の売買・賃貸、商業物件の取引に携わっている菅沼さんに、日本と米国で過ごした幼少時代の経験から、コロナ禍による働き方の変化、今後のシアトルでのビジネス展開について伺いました。
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友達に恵まれた、日本と米国での幼少時代

生まれは東京で、1歳半ぐらいの頃、父の仕事のために米国に引っ越しし、小学3年生まで住んでいました。最初にシアトルに少し住んでから、オレゴン州ポートランドに住み、家族ぐるみでお付き合いする、とても仲の良い友人ができました。母はおそらくその家族から英語を学んだのだと思います。朝、私とそのご家族の息子さんが幼稚園に行った後、そのご家族が母に「今日はあそこに行こう」などと声をかけてくれ、連れ出してくれました。悲しいことに、その友人は高校の時に事故で亡くなってしまいましたが、今でもそこのお母さんは私の誕生日に必ず電話をかけてきてくれ、「お誕生日おめでとう」と言ってくれます。そのご家族と知り合えたことは、オレゴン州での素晴らしい思い出です。
小学3年生になって日本に帰国し、帰国子女のための学校に半年だけ通ってから、区立の小学校に編入しました。その時に良かったのが、クラスメートがとてもあたたかく迎えてくれたことです。すぐに声をかけてくれて、一緒に遊んだ記憶があります。最初は漢字テストが0点だったり(笑)、言葉の面で苦労しましたが、学校のシステムの面でも新しいことが多くありました。アメリカで通った小学校では、クラスに鉛筆削り器があり、席を立って鉛筆を削りに行くなど、教室の中での行動に自由がありました。でも、日本の学校にはそういう自由さはありません。また、アメリカでは学校にお弁当を持参してカフェテリアで食べていましたが、日本では給食当番があり、割烹着を着た同級生が給仕をして、教室で食べます。そして、授業が終わった後、教室を自分たちで掃除します。アメリカでは今でも掃除の人が学校に来てくれて掃除するのが一般的です。自分が使ったものを最後に掃除するという、日本のシステムはすごくいいなと思いました。
そして、中学3年生になった1985年、またアメリカに来ることになりました。日本では周りの友達は高校受験で大変でしたが、アメリカは高校までが義務教育なので、受験もなく、そのままこちらの高校に入学したのです。でも、今度は英語が大変でした。確かに日本では中学校で英語の勉強が始まりましたが、日本の中学校の英語はアメリカの小学校1年生レベルです。ですからたいして勉強しておらず、自分もなんとなくわかってるからいいという気持ちでいたんですね。そしてこちらに来た時にテレビをつけて初めてニュースを見た時、ニュースがわからなかったのです。考えてみたら、小学3年生から高校1年生に飛び級したようなわけですから、当たり前ですね。なので、入学したのはニューポート高校でしたが、当時、ESLはサマミッシュ高校にしかなかったので、午前中はニューポート、昼にスクールバスでサマミッシュに移動して、午後はサマミッシュでESLで受け、またスクールバスでニューポートに戻るというのが一年間続きました。そんなふうにESLを受けている人が同じ学校に3~4人ぐらいいたでしょうか。いろいろな国から来たばかりで、中でもレバノン、ベトナム、中国から来た人とは今でも友達です。彼らとも仲良くなって、学校が終わった後に遊びに行ったりしていましたし、また友人に恵まれて、学校が終わってから友達の家に行って、英語に触れる時間がまた増えていきました。
でも、ワシントン大学に入学してから一年たった時、ルームメートが、「初めて秀夫に会った時、この英語力で授業についていけるのか心配だったよ。でも、一年たってみて、君の英語力がすごく高くなったのがわかった」と言われました。彼は英語のレベルがとても高い人だったので、心配してくれていたんですね。自分の中ではそんなに変化を感じなかったのですが、そういうものなんだなと。ワシントン大学での専攻は経済学でした。最初はビジネスを専攻したかったのですが、ただ、当時のワシントン大学のビジネススクールは入るのが大変で、似たようなフィールドとして経済学を選びました。エンジニアリングや建築もちょっと考えたことがあります。そのころから建物には興味があったのかもしれません。
二足の草鞋から、不動産業へ
1987年に父が亡くなった後、母はベルビュー・カレッジでカウンセラーとして働いたりしていましたが、アメリカの永住権を取るつもりなら起業する方がいいということで、1992年に宏徳エンタープライズを創業しました。最初は何でも屋のような仕事から始め、その後、今の不動産業になっていきました。
大学卒業後に日本に帰国するつもりだったので、帰国子女向けの就職サービスで情報を集めたり、大学在学中に日本に行ってリクルート社の就職セミナーなどに行ったり、日本企業の面接を受けたりしていました。でも、ブリヂストンから内定をいただき、アメリカに戻ってきた時に、アメリカの永住権の抽選に当選したという連絡が届いたのです。どうしようかと思いましたが、永住権はなかなか取れるものではありませんし、この先、どうしても日本に帰りたいとなれば、「その時にゆっくり考えればいい。就職先はどこかしらあるだろう」という安易な考えで、米国にいることにしました。
こちらで就職活動もしておらず、ビジネスに関わるプロフェッショナル・ライセンスも何も取得していなかったので、母が提案してくれた不動産エージェントのライセンスを取得しました。最初は別の不動産会社に就職して、不動産エージェントとしての経験を積みました。サポートがしっかりしている会社で、とても勉強になりましたし、その時に知り合った商業物件エージェントとはいまだに一緒に仕事をしています。
また、もう一つ、まったく違う仕事もしていました。1990年代に、ベルビューやシアトルのクイーン・アン、空港のそばなどにも店舗のあった『Larry’s Market』という少しハイエンドなスーパーマーケットがあったのを覚えているでしょうか。その中にお寿司屋さんがあったのですが、実はそこで食材などを運ぶ仕事をしていました。毎朝、シアトルの45th Street 沿いのセントラル・キッチンに行って、シイタケや卵焼き、マグロなど、用意されているものを各店舗に配達したり、空港に食材を取りに行ったり、容器がなくなったら倉庫に取りに行って届けたり、そういうことを週7日、朝8時ぐらいから早い時は正午までに終わり、また夜7時にカリフォルニア州から届いた魚を空港に取りに行ってセントラル・キッチンに持っていくなどしていたのです。
しばらくすると、その配達の仕事が忙しくなってきて、フルタイムで働いてほしいと言われるようになり、そこで最初に就職した不動産会社を辞め、宏徳エンタープライズに入社し、配達の仕事をしながら、不動産の売買がある時はそちらを優先するという体制を続けました。
その頃、宏徳エンタープライズでは、一番問い合わせが多いのが不動産であることがわかったので、業務内容を少しずつ不動産業にシフトしていました。最初にお客になってくれたのは友人などが多かったのですが、日本人のお客さまが増えていきました。そうして、私も完全に宏徳エンタープライズでフルタイムで働くことになったのです。
自分の今までを考えると、必ずどこかで一生付き合っていく方に出会っています。本当にありがたいことだなと思います。人間はそれぞれ人生の選択の時があり、右に行くか左に行くか、どの道を行くか、あの時、こっちに行っていればよかったなとか考えたりするかもしれません。私の場合だと、「あの時、永住権が当たらず、日本の企業に就職していたら、全然違う人生になっていただろうな、どうなっていただろうな」とか考えたりするのです。私にとっては特に大きな分かれ道だったので。でも、またあの時点に戻ったとしても、やはり同じ選択をすると思います。というのは、自分の家族はもちろんですが、そこから出会った人たちが自分の宝だと思っているからなのです。そういう人たちがいない道に行きたいと思うことはないとというぐらい、今まで出会ってきた仲間や友人を大切に思っています。
日本と米国の考え方やシステムの違いの間で
私の場合、ずっとアメリカで仕事をしていて、日本の不動産の動きや考え方、システムなどをどっぷりつかって見たことはないのですが、日本から来られた方とお仕事をしながら、日本とアメリカでの不動産に対する考え方の異なる点をいろいろ知ることができました。
例えば、とても基本的なことで言うと、不動産エージェントを選ぶ時、日本では不動産会社に行って物件を教えてもらうやり方がありますが、アメリカでは不動産協会があるので、どの不動産エージェントを選んでも、そのエージェントがこれから市場に出る物件の情報を最初に知った場合以外、入ってくる情報は98%同じです。
あと、アメリカでは土地がただ大きいだけでは価値は高くなく、半分は崖で使えないとか、半分はグリーンベルトで開発ができないとか、そういう状態は価値に大きく影響します。
また、アメリカでは家もリモデルをした方が長持ちするので価値が上がります。水が漏れて大変といった修理や、やらないと家が壊れていくから修理という意味でのリモデルではないんですね。家も投資であり、株や仮想通貨などのような投資の中にある不動産部門の投資の一つという考えを持っている人が多いので、自分も快適に住みながら、どうしたら将来的に売る時にも価値が保たれるかを考えます。市場がそれを支えているというのもあります。間に立つと、システムや考え方が全然違うのがわかりますね。
自分にできるサービスとは
1970年代にアメリカに来た時、僕は幼かったのでただ遊んでいただけですが、今みたいに日本語での説明もなかったので、母はとても苦労したと思います。
今だと、これからアメリカに来るとなったら、ジャングルシティなどを読めば知っておくべきことが書いてあります。でも、あの当時は、学校の手配一つにしても、すべて英語で、大変だったはず。特に、電話での英語はわかりづらかったと思います。そういうふうに自分の親が苦労した経験を見てきたので、そこをサポートしていきたいと思っています。
「買ってからのお付き合い」と考えているので、何かが壊れた時など、何か必要なことがあれば、お客様をサポートしています。今ではオンラインで検索すればいろいろなビジネスが出てきますが、やはり不動産業者として信頼できる業者がいますので、そういう業者とお客さんをつなぐことができれば、お客さまも安心ですね。「何年たっても、この会社はちゃんとフォローアップしてくれるよ」という口コミには感謝の言葉しかありません。
そして、1880年代や1990年代初期など、戦争の前にこちらに移住してこられた日系アメリカ人の方々が作られた日系コミュニティがあるからこそ、今の我々が、こちらで快適に過ごせるということを知るのも大切なことです。アメリカは、いろいろな人種が集まっている国です。公民権運動のことを歴史として知っていても、一昨年から大きな運動になった Black Lives Matter の動きや、アジア人へのヘイトなどがあからさまになったりして、その真っただ中にいるということを経験しました。
でも、この地域で私たち日本人が安心して暮らせるのは、一番初めに日本から来られた人たちが、今とは比べものにならないぐらい差別され、苦労し、強制収容を乗り越えて、いろいろなものを築き上げ、政治や教育などにプレゼンスを持つようになったからだと思います。特にワシントン州西部は、そういうプレゼンスがとても強力な場所ではないでしょうか。私は鈍感なところもあるのか、差別や偏見を経験したことがないのですが、最初にこの地に来た日本人の方々が築いてくれたものに対して、尊敬の気持ちを持たないといけないと思っています。
コロナ禍による働き方の変化
コロナ禍になって、最初の頃は不動産の原点である「家を見せる」ということ自体ができませんでした。オープンハウスも当初は人数制限があったりしましたが、今は空き家でもすぐに見に行くことはできず、混み合わないように予約しないといけなくなりました。そんなふうに、全体のシステムが変わっています。
個人的には、Zoomにも少し慣れたというのもありますし、問い合わせをしてくださった他州の方には、以前はほぼメールで返信していたのが、「ではまずZoomでお話ししましょう」と、画面上ではありますが、顔をあわせることができます。やはり電話やメールより親近感が生まれますね。また、メールだと要件だけで終わってしまいますし、電話は見えない部分が大きいので相手がどういうリアクションをしているかわかりづらいですが、Zoomになると雑談をしたり、話が横にそれたりしても、向こうが楽しそうな感じだったら、「話してよかったな」と思ったり、雰囲気的にわかることがあります。そういった面で、他州や日本にいらっしゃる方との会話にはプラスの部分が多いかと思います。
シアトルをどのようにPRするか

シアトルは、2020年にはキャピトル・ヒル自治区ができたりして大変なイメージを持たれた時がありました。今もホームレス対策、物価の上昇、渋滞の復活など、欠点はあるとは思います。また、シアトル市の政治的な考え方が内容によってはリベラルな面を優先して治安の方はどうなのだと心配になったりする部分もあります。
でも、なんだかんだ言って、シアトルは緑が多いところで、ちょっと車を走らせると大自然があります。それに加えて、教育レベルが高い地域がありますね。
そして、シアトルにある企業のダイバーシティも挙げておきたいです。いろいろな企業があり、経済を支える力がすごく大きいので、不動産の価値が支えられています。アメリカの他の地域と比べて、不動産価格の上がりだけを見たら魅力が薄いと感じるかもしれませんが、ここは経済が強いので、不動産価格はあまり大きくは落ちないと思います。
今は一軒家の管理・売買をメインにやっていますが、これからは商業物件にももっと広げていくことを計画しています。私と同じ気持ちでやってくれる人材を見つけることが大切です。日本人の方に喜ばれるサービスは、どんな方に提供しても喜ばれると思うので、さらに顧客も開拓していきたいですね。何が何でも大きくということではなく、サービスの質は今のまま崩さず、やっていきたいと思っています。
菅沼秀夫さん 略歴:東京生まれ。米国と日本で幼少時代を過ごす。ワシントン大学経済学部を卒業し、数年にわたり食材の配達業と不動産エージェント業を掛け持ちした後、母親の菅沼愛子さんが1982年に設立した宏徳エンタープライズに入社。以来、さまざまな不動産物件の売買や管理を行っている。
聞き手:オオノタクミ