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「いろいろな形で、書道や日本文化を広めたい」書道家・眞田千代さん

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もくじ

書道との出会い

私が書道と出会ったのは、小学校1年生の時でした。小学生になるとたいていの子供がそろばんやピアノを習いますが、たまたま町内会にオープンした書道教室に姉妹で行ってみたのが始まりです。たった週1回の教室でしたが、近所の友達もみんな行っていたので楽しく習うことができました。先生は子供好きな書道家の女性で、書道以外にもクリスマス会や料理教室、新年会などをしてくださり、作品展覧会をしてくれて生徒にプレゼントをくれたりと、愛情たっぷりのとてもいい方。今でも実家に帰ると必ずご挨拶に行き、先生の授業に重なったらアシスタントをしたりしています。

習字を続けられたのは、家で練習が必要なピアノと違い、習字教室に行って1時間だけしっかりやれば良かったことがひとつの理由です(笑)。先生が好きだったことも、もうひとつの理由。そして、次第に字がうまくなるのがわかり、花丸がもらえるのが嬉しかったです。自分の段がどんどんあがり、自分の作品が一般公開されたりして、幼いなりに面白くなっていきました。

広島文教女子大学から就職

高校では書道部には入らず、書道を選択科目として受講していましたが、昔からの夢で書道の先生になりたいと思い、広島にある書道専門大学を卒業されたその先生に指導を受け、書道学科のある文教女子大学と安田女子大学を受験する準備をしました。毎日毎日書道を練習して指導を受けると同時に、幼い頃から教わってきた山田先生にも教えを受けました。そのうち、「世界の人に書道の楽しさを伝えたい」という考えが高校の時にポンと出てきて(笑)、「そうすると英語も話さないといけない」「英文科に行ったほうがいいのかな」と悩んだりしましたが、結局は書道の大学に決めました。それはやはり、「自分に専門的なものがないと、ちゃんと教えられない」と思ったからです。知識と技術をしっかりしておけば、英語は後から勉強すればいいかなと。

そして、広島文教女子大学に合格し、国文学科書道専修に入りました。国文学科は古文や漢詩、中国語などを勉強するところですが、国語教育・書写教育の教員免許と中学校と高校で教える国語の免許、高校の書道の免許を取得しました。書道は芸術関係にあたるため、掛け軸の作り方だとか、作品展のすすめ方、美術館で学芸員として働く方法なども、書道にあわせて勉強しました。

卒業してすぐに広島の中学校で国語と書道の非常勤講師としての職を見つけ、5年間にわたり書道と国語を教えました。午後に授業が終わると、大学時代の恩師が運営していた書道教室で幼稚園児から大人まで指導していました。教えるのが大好きなので、幼稚園児には鉛筆の持ち方からひらがな、大人は毛筆など、ほぼ毎日教えていました。残念ながら、「書道が嫌い」という子は多いですね。例えば中学生には「小学校の時に習字をしたけれど、いつも直されてばかりで面白くない」「片付けが嫌い」「手に墨がつく」といったことを言われました。なので、中学生は褒めて興味を引き出し、それを伸ばしていくようにがんばってみました。教材ビデオを作ったり、教材用のプリントを何枚も作ったりと、夢中でした。本当に書道一筋です。

アメリカでの生活

中学校で講師をしていた時に、同じ中学校で英語のアシスタントとして働いていた今の夫に出会いました。講師同士なので同じ空き時間があり、当時は英語も何もできなかったのですが、机も近かったので、自分から話しかけて友達になったのです。彼は日本に7年間もいたので、「そろそろアメリカに帰って別の仕事をしたい」という状況でした。数年後、彼との交際が始まり、婚約しました。夫は私の父に、「アメリカでちゃんと仕事を見つけないと、娘はやれないよ」と言われたみたいで、アメリカに戻る前にシアトルで仕事を見つけてきました。まさか自分がアメリカ人と結婚して渡米することになるとは、まったく想像もしていませんでした。不安でしたが、私の性格上、「何とかなるさっ!」と楽天的でした。昔考えていた英語で世界の人に書道を教えるという夢が頭の片隅にありましたので、新しい将来にわくわくしていました。

そのようなわけで、2000年3月に渡米しました。当時、英語はまったく話せなかったので、最初の3ヶ月は毎日泣いてました。キャピトル・ヒルに住んでいたので、歩いている人たちの髪型やピアスの多さ、お金をせびってくる人たちの多さも日本での日常と違いすぎて、自宅のアパートから出ることができませんでした。その時の唯一の趣味は テレビ番組の 『ビバリーヒルズ90210』を見ること(笑)。これは日本で放送されていたので、理解できるものと言えば、それだけでした。

それでも夫の薦めでシアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジの英語クラスに行き始め、最初は人種も年齢も経歴もさまざまな人たちに囲まれることに緊張していたのが、次第にそれにも慣れてきて、数ヵ月後には本来の明るい自分を取り戻しました。例えば、英語を母国語としないクラスメートに「あなたの英語の訛りって本当にすごいわね」と言われたら、「あなたこそ!」と言い返して一緒に笑ったりできる、良い友達関係ができていったのです。

それに勢いを得て、アート関係のカタログに載っていたシアトル市内各地のギャラリーに作品を持ち込んで展示を依頼したりするようになりました。自分が言いたいことを英語で書いて、夫に添削してもらい、それと作品を持ってとにかく飛び込みで。自分が言いたいことを言って、相手が何を言っているのかわからないけれども断られているのはわかるという状態。今から考えるとレベルも内容もまったく違うギャラリーに行っていました。そして最終的に作品を置いてくれたのが、キャピトル・ヒルにある 『Kobo』 でした。とてもありがたかったです。その頃、ワシントン州の物産を販売するお店でパートタイムの仕事も見つけることができました。

引越しに続く引越し

そんなこんなでようやくアメリカに根を下ろし始めたと実感し始めた矢先、ドットコム・バブルが弾けてしまい、夫が失職。彼が次に見つけた仕事は、シアトルと同じワシントン州とは言え、とても遠いウェナチーという小さな町の新聞社でした。それでも私はそこからバスを使ってシアトルに通い、作品展に参加したりしながら、ウェナチーの子供たちに書道や日本語を教えたりと、今から考えても精力的に活動していたと思います。とにかく何か活動していないと、という気持ちもありました。

数年後、夫の転職で今も住んでいる州都オリンピアに引っ越してきましたが、書道の実演や作品展に参加し、2006年にはオリンピア市のパブリック・アート・プロジェクトに選ばれ、グラフィック・デザイナーのバーバラ・マッコンキーさんと一緒に 『共存』 というテーマで野外書道の展示をしました。彼女のデジタル絵画はとてもすてきで、いつか私の書道とコラボできないかと話していたので、このプロジェクトに選ばれたという知らせを受けた時は二人で大喜びでしたね。

展示場所は、オリンピアのヤシロ日本庭園。「生まれ育った国は違っても、こうして巡り会い、親友になれたこと、そして、作品のスタイルも違うけれど、お互いにそれを尊敬していること、そしてオリンピアが兵庫県社市(現在は加東市)と姉妹都市関係にあることを含め、『共存』 というテーマにしました。野外展示ですので、作品はバナーに印刷し、竹で枠組みを作り、それを一つ一つ配置しました。制作日数は約3ヶ月。大変でしたがとてもやりがいがありました。

残念ながら、これは夏期のみのテンポラリ・パブリク・アートだったので、もう見ることはできませんが、6年たった今でも大好きな作品ばかりです。

今後の抱負

一年前に出産してから作品の制作や書道の実演などはお休みしていましたが、今年11月にワシントン州日本文化会館で開催された文化の日のイベントで、久しぶりに書道の大きな作品をみなさんの前で制作しました。最高に気持ちが良かったです!

また、子供ができて、外国で日本文化を伝えることの意味をいろいろと考えさせられました。将来は自分の子供にも書道を教えたいですし、地元で書道教室ができたらいいですね。渡米した頃の夢「英語で世界の人に書道の楽しさを教える」を再認識し、今後もいろいろな形で書道や日本文化を広めることに関わっていけたらと思っています。

眞田 千代(さなだ ちよ)
広島県生まれ。小学校の時に書道を習い始め、その面白さに惹かれ、書道家を目指す。教員としての勤務を経て、結婚を機に渡米。働きながら書道の作品を発表し、現在に至る。個人的な作品の制作はもとより、地元アーティストとのコラボレーションによるパブリック・アートの制作、日本関係のイベントなどでのライブ書道を行うなど、書道の面白さを伝える活動を積極的に展開している。
【公式サイト】 眞田千代公式サイト

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