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「海外で得た経験や価値観は、日本を豊かにする原動力になる」 ディーン・フジオカさん

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ディーン・フジオカさん

NHK 朝の連続テレビ小説 『あさが来た』 で五代友厚役を好演する注目の俳優、Dean Fujioka(ディーン・フジオカ)さん。日本人の両親の元に生まれ、日本で育ったが、俳優としてのキャリアはアジアでスタートしたという、日本の芸能界では珍しい経歴の持ち主だ。シアトルでの留学時代や、『あさが来た』五代役への取り組み、国際結婚で恵まれた双子のお子さんの子育てで意識していること、今後の抱負などについて話を聞いた。

シアトル留学時代、Junglecity.com をよく見てくれていたというディーンさん。「懐かしい!」と興奮しながら、インタビューに答えてくれた。

もくじ

語学と音楽に親しんだ少年時代

アジア、アメリカ、日本など世界を股に掛けて活躍するディーンさんの外国文化への興味は、商社勤めの父とピアノ講師の母の元に生まれるという環境の中で、自然と培われていった。

小さい頃は、よく笑う子だったそうです。恐竜の本や虫の本、レゴ遊びが大好きな、よくいる「男の子」でしたが、見た目のせいか、よく女の子に間違われていました。

母がピアノの先生だったので、家の中にはいつもクラシック音楽が流れていて、楽器もたくさんありました。自然と音楽に親しめる環境だったと思います。日本のポップスもよく聴いていましたが、小学校高学年に入ると少しませてきて、洋楽も聞き始めるようになりました。当時、流行っていた『NOW』という洋楽のコンピレーションアルバムを買ったりしていましたね。そのうち、メタリカやニルヴァーナなど、激しい音楽を聞くようになりました。

楽器もいろいろやりました。最初はピアノを習っていましたが、途中からギターに転向。高校に入ってからは、いくつかバンドも組みました。実は、中学生くらいからずっと、海外に行きたいという気持ちが強かったんです。父親が商社勤めで海外を飛び回っていたので、その影響もあったと思います。でも、「高校を出るまでは日本にいなさい」と、留学に反対されてしまって。音楽やバンド活動があったから、なんとか高校生活を乗り切れたように思います。

父は時々、何気なく外国語を教えてくれました。例えば、父と一緒にお風呂に入って「あと10数えたら上がっていいよ」というときの数え方が中国語だったり。アメリカ出張のお土産に、英語のレーザーディスクを買ってきてくれたこともありました。『オズの魔法使い』やディズニーアニメ、『ジーザス・クライスト=スーパースター』など、振り返ってみれば、父なりにいいと思ったものを選んでくれていたんだと思います。当時は子どもだったので、「ちょっと面倒だな」なんて思っていましたが(笑)。

提供:ディーン・フジオカ

シアトルのストリートで広がった人脈

高校を卒業し、長年の夢だった「留学」をついに実行に移すときがやってきた。行き先はシアトル。ディーンさんの留学した1999年前後は、マイクロソフトやアマゾンを初めとするIT企業が盛り上がりを見せていた時期でもあった。

とにかく英語圏、それもアメリカに行きたいと思っていました。理由は、単純に日本はアメリカから多大な影響を受けていると思ったから。当時の自分にとっては、アメリカが世界の最先端のような気がしていました。もちろん、音楽も大きな理由の一つ。メタリカやニルヴァーナ、マイケル・ジャクソンを輩出した国なら、きっと何か面白いものや、見たことのないものが見られるんじゃないかという期待がありました。

留学先にシアトルを選んだのは、偶然なんです。分厚い留学案内誌をパラパラめくって、目を閉じて適当に指さしたら、そのページに載っていたのがシアトルの学校だった。ところが、空港からのバスが向かった先は、シアトルではなくタコマ(注:シアトルの南にある、ワシントン州で3番目に大きい都市)でした。僕が勘違いしていただけで、実は、留学先はタコマの学校だったんです。てっきりシアトルに行くものと思い込んでいたので、最初はショックを受けましたね(笑)。

半年間、ESLのクラスを受講した後、シアトルのカレッジに転入しました。ジャングルシティは、当時からよく見てましたよ! 懐かしいです。カレッジの専攻は、ITを選びました。父親が携わっていた分野が電機系で、子供の頃からパソコンやインターネットの変遷を目の当たりにしてきたので、ITには強い関心を持っていました。それに、ITの知識を得れば、いずれは自分で会社を興すこともできるような気がして。自分が自分の雇い主になることに、あこがれがあったんです。

実際に大学生活が始まってみると、キャンパスでの授業と同じくらいに重要だったのが、学外での「ストリート活動」だった。

シアトルはアートや音楽といったエンターテインメントがすごく身近にあって、周りにも面白い人たちがたくさんいた。クラブイベントや週末のホームパーティーなど、何か面白そうなことがあれば、必ず顔を出すようにしていました。そこで知り合った人たちからイベントに誘われて、また知り合いが増えて。人種は関係なく、共通の興味を通じてどんどん人脈が広がっていきました。よく行ったクラブは、『Chop Suey』 や 『Baltic Room』。イベントでは、飛び入りでラップを披露したりもしていました。

当時はキャピトル・ヒルに住んでいました。レストランもあちこち行きましたが、特に気に入っていたのが、ユニバーシティ・ディストリクトにあるタイ料理店 『Thai Tom』 です。料理人が、あちこちに食材を飛ばしながら派手なパフォーマンスをしていて、とても面白かったんですよ。時々は、クイーン・アンやアルカイ・ビーチに景色を見に行ったりもしました。スノコルミーでのスキーや、セーフコ・フィールドでの野球観戦も懐かしい思い出です。

香港でのスカウトを機に俳優の道へ

大学卒業後、「アメリカに永住するつもりだった」というディーンさん。就職先のめども立ち、満を持して就労ビザを申請したが、却下されてしまう。9・11テロ事件以降、ビザの発給用件が厳格化されたことも要因だったかもしれない。

この先どうしようかと考えたときに思い出したのが、まだシアトルに来たばかりの頃、大学の先生が言っていた「これからはアジアの時代だ」という言葉でした。ちょうど自分の中でも、本当にアメリカがメインストリームなのか、他の世界も見ておいた方がいいんじゃないのか、という疑問を抱いていた時期でもありました。それで、バックパッカーのような感じで、アジアを放浪し始めたんです。

香港に滞在中の2004年、たまたまあるクラブイベントに行って、飛び入りでラップを披露しました。終わった後に、「モデルをやってみないか」とスカウトされて。それが、この世界に入ることになったきっかけです。シアトル時代にクラブミュージックにどっぷり漬かって、イベントに出演したりしていた経験が、こんなチャンスにつながるとは思いもよりませんでした。

ファッションショーに出演したり、テレビCMやミュージックビデオに出演したりと、モデルとしての仕事はとんとん拍子に展開していった。そして2005年、香港映画『8月の物語』で俳優デビューを果たす。

せりふが全部広東語だったので、言語指導の先生にマンツーマンで教えてもらいながら、一生懸命に覚えました。長期にわたって演技をするのは初めてでしたが、これがもう楽しくて、現場でずっと寝泊まりしていたいほどだった。俳優としてどう演技するべきかだけではなく、脚本の書き方や、ロケハンや撮影の仕方など、フィルムメーカーとしての仕事を一から教えてもらいました。

撮影期間中、クルーとは四六時中一緒にいて、みんなでご飯も食べて、まるで家族のようでした。僕は小籠包が好きで、いつも仕事が終わると小籠包を食べに行っていたので、みんなに「小籠包」と呼ばれてからかわれていました。言葉も文化も異なり、家族や友人もいなかった香港という土地で、そんなふうに社会の中に受け入れてもらえたことが、たまらなくうれしかったんです。

朝ドラ出演を機に、日本でも大ブレイク

台湾で、映画『夢の向こう側~ROAD LESS TRAVELED~』撮影時に出演者たちと記念撮影。
左から2番目がディーンさん。
(提供:ディーン・フジオカさん)
カナダ製作のドラマ『荒野のピンカートン探偵社』では、探偵社に犯人探しを依頼する
日本人ケンジ・ハラダ役を演じた。(写真提供:ディーン・フジオカさん)
映画『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』では、主演・主題歌のほか監督も務めた。
写真は撮影現場の確認中。
(写真提供:ディーン・フジオカ)

香港で俳優デビューを飾った後、台湾に拠点を移し、数々の映画やドラマに出演。2014年には、カナダ製作の連続ドラマ『荒野のピンカートン探偵社』で北米デビューも果たした。2015年、NHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』に出演。明治維新期に大阪経済の発展に寄与した実業家・五代友厚を演じ、日本国内でも一気に注目度が高まっている。

朝ドラの出演が決まったときは本当に驚いて、まさに「びっくりぽんや!(注:『あさが来た』で、主人公あさが驚いたときに言う決まり文句)」という感じでした。プロデューサーの方が、僕が日本で出演したドラマをたまたま見て、「海外を拠点に活動している姿が五代友厚のイメージに合う」と感じてくださったようです。実は、僕が初めて朝ドラを見たのは、インドネシアだったんです。ジャカルタの日本大使館で、何かの書類申請で長いこと待たされていて、ふと待合室にあるテレビを見たら、ドラマが流れていた。それが朝ドラでした。そこに自分が出ることになるなんて思ってもいませんでしたから、奇跡が起こったような気持ちでした。

『あさが来た』では、「近代大阪経済の父」と呼ばれる五代友厚役を熱演。
主人公あさに魅力を感じ、実業家として奮闘する彼女をサポートする。
(写真提供:ディーン・フジオカ)

台本を読んでみると、幕末から明治・大正という激動の時代を、庶民の視点で描くストーリーが面白いと思いました。五代友厚という人物については、最初はまったく知りませんでした。でも、彼について調べていくうちに、「こんなに偉大な人が昔の日本にいたのか」という驚きがどんどん膨らんでいきました。まだパスポートも飛行機もない時代に、船に乗って、命がけで欧州を見てきた。そしてそれを日本に持ち帰り、造幣局や商工会議所を立ち上げたりして、大阪経済の基盤を作り上げた。自分のためではなく、日本のために、後世のためにという思いがあったからこそ、成し遂げられた偉業だと思います。

五代さんを演じる上では、そうしたさまざまな功績を踏まえた上で、その時々の彼の内面を表現したいと思いました。この場面で五代さんはどう思っていただろうかと、想像力を最大限に働かせるようにしています。細かい仕草や、それこそ呼吸の仕方に至るまで、自分自身が五代さんを追体験するようなつもりで演じています。

どんなときでも新しい場所で、新しいことに、まっさらな状態から挑戦したい

プライベートでは、2012年に福建系華僑でインドネシア国籍の女性と結婚。2014年には、双子の1男1女に恵まれパパとなった。現在は日本で撮影中のため、インドネシアに住む家族とは離れて暮らす日々だ。

ディーン・フジオカさん

子供が生まれて初めて感じたのは、彼らにとっては僕が「初めて見る日本人」だということです。それなら、自分が子供たちに、日本のいいところをたくさん伝えたいと思いました。皮肉なことに、ずっと日本にいたままでは、日本のよさが分からなくなってしまう。五代さんがそうであったように、海外で得た経験や価値観は、日本を豊かにする原動力になります。『あさが来た』の視聴者の方々にも、五代さんを通じて、海外に目を向けたり、日本のよさを見つけたりしてもらえたらうれしいです。

これまでアメリカ、アジアと各地を転々としてきたので、プライベートでは、そろそろどこかに定住したいですね。ただ、仕事の上では、今までどおり国境は関係なくやっていくつもりです。居心地がいい場所にいると、ついそこにとどまってしまいたくなる。でも、これまでの自分を振り返ってみると、どんなときでも新しい場所で、新しいことに、まっさらな状態から挑戦してきてよかったと思うんです。

これからは、音楽活動にも力を入れていきたいですね。ツアーで、これまで自分がお世話になった街を訪れて、お礼ができたら最高。そのときはもちろん、シアトルにも行きますよ!

シアトル留学時代の思い出も語ってくれたディーンさん。俳優として、アーティストとして、再びシアトルを訪れてくれる日を心待ちにしたい。

取材・文・写真:いしもと あやこ

Dean Fujioka/1980年生まれ、福島県出身。高校卒業後にシアトルのコミュニティ・カレッジでITを専攻。大学卒業後はアジアを放浪し、香港のクラブでスカウトされたことを機にモデルとして活躍。2005年に映画『八月の物語』で俳優デビューを果たした後、台湾に拠点を移し、多くのドラマや映画に出演。2014年にはドラマ『荒野のピンカートン探偵社(The Pinkertons)』で北米デビューを果たす。現在、2015年度下半期のNHK朝の連続テレビ小説 『あさが来た』 に五代友厚役で出演し、国内外で大きな注目を集めている。
【公式サイト】www.deanfujioka.net

インタビューの最後に、ディーンさんの「シアトル思い出スポット」をご紹介しています!

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