バレエと聞けば、すぐに音楽を想像するほど、バレエと音楽は密接に結びついています。シアトル最大のバレエ団パシフィック・ノースウエスト・バレエ(PNB)は、音楽を大切にし、プロのリハーサルや公演はもちろん、バレエスクールの生徒、一般市民が受講するクラスにまでピアニストによる生演奏を採用しているバレエ団。今回、10数人にのぼる PNB 専属ピアニストで唯一の日本人ピアニスト、小栗絵美(おぐり・えみ)さんにお話を伺いました。
幼稚園でのピアノとの出会い
― バレエピアニストのお仕事について教えてください。
英語では "ballet pianist" や "ballet accompanist" と呼ばれますが、バレエのクラスやリハーサルでピアノを演奏し、ダンサーがより踊りやすくなるお手伝いをする仕事です。
プロのダンサーたちがやる基礎の動きは変わりませんし、彼らは毎日それを何十年とやっているので、ピアニストとしてはそれをもっと楽しく、より刺激があるものにしたいです。また、踊るのが子どもなら、踊ることに魅力を感じ、ずっと続けたいと思ってもらいたいので、音楽で気分を盛り上げてあげたいと思いながら弾いています。
パシフィック・ノースウエスト・バレエ(PNB)では、常に10数人のピアニストを抱えています。一般の人が受講するクラスや子どものクラスも生演奏でやる PNB のようなバレエ団は珍しい存在ですね。
― ピアノはいつから始められたのですか。
日本の幼稚園で3歳の時、ピアノに出会いました。めちゃくちゃながら自分で歌を作ってピアノで弾いていたそうなのです。それを見た先生に「ピアノが好きなようなので、習わせたらどうか」と言われた親が、ヤマハの音楽教室に連れて行ってくれました。それがピアノを始めたきっかけです。
もうピアノが大好きで、ヤマハの幼児科を終了し、ジュニア専門コースに入ってからは週に2回のレッスンを18歳までずっと続けました。グループレッスンと個人レッスンの両方でさまざまなジャンルの音楽を学べる内容になっていて、作曲もあれば、いろいろな楽器が使えるアンサンブルもあり、聴音、音楽理論も小学校から学べて、本当に好きでたまりませんでした。それに加え、高校になると、ジャズピアノやドラムのレッスンも受けました。
渡米して実感した、音楽への思い
― アメリカに来たきっかけは音楽だったのですか。
18歳になって、音楽は自分の一部であり、あって当然のものになっていたので、違うことをやりたくなりました。アメリカに留学することを決めたのは、以前から人間の心理に興味があり、いろいろな人に会ってみたかったからです。
ユタ州立大学で心理学を専攻しましたが、やはり音楽を忘れられず、大学で音楽科の子たちを見るとちょっとやきもちを焼いたりして(笑)、「やっぱり大学でも音楽をやればよかった」と思ったものです。そう思いながら心理学で卒業し、今度はウエスタン・ワシントン大学大学院で心理学の修士課程に入りましたが、「やっぱりこれがやりたいわけではない、やりたいのはやはり音楽だ」と実感したので、心理学の知識と音楽をあわせてセラピーをするための音楽療法(ミュージック・セラピー)で二つ目の学士号を取得しようと、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校に入学しました。
― その後、どのようにしてバレエピアニストの仕事に就くことになったのでしょう。
大学卒業後、シアトル地域でリトミックの教師としてプリスクールで12年ぐらい教えていましたが、今から5年ほど前、バレエをやっていた同僚の先生が「リトミックは体を動かして音楽を覚えていこうというものだから、バレエにもあうのでは。バレエ団に弾きに行ってみたら」と提案してくれたのです。
そこで早速、PNB のピアニストのマネジャーに手紙とレジュメを渡しました。すぐに連絡があったわけではなく、オーディションに来ないかと連絡が来たのは数ヵ月後。オーディションといっても、ピアニストでもあるそのマネジャーが弾いているクラスに呼ばれ、「では次は君が弾きなさい」といきなり言われるというものでした。なんとか1時間にわたり弾いて、ひどい出来だったと自己嫌悪になったのですが、「いつから来れるか」と聞かれ、すんなり雇われたのです。
それから数ヶ月は臨時のピアニストとして働き、その間にネットで見つけた本を買って研究し、曲を集めて、バレエ用にアレンジして準備しました。バレエピアニストになるためのコースはどこにもなく、そういう学校もないので、自分でやるしかないのです。そして2014年9月に新しいシーズンが始まると同時にフルタイム勤務となりました。
― バレエピアニストに求められることは。
PNBは3種類のクラスがあります。バレエの基礎テクニックを教えるクラス、決まった振り付けを決まった曲にあわせて教えるバレエカンパニーのリハーサルやバリエーションのクラス、もうひとつはクリエイティブ・ムーブメントという、リトミックのような子どものクラスです。私はすべてやっていますが、主に担当しているのはレギュラーの基礎テクニックとクリエイティブ・ムーブメントです。
そのどのクラスでもバレエピアニストと先生が事前に打ち合わせすることはなく、時間になるとすぐに始まります。クラスは1回90分。前半45分はバーを使い、後半はフロアエクササイズという流れです。なので、先生が口頭で「次はこれを8回やって、次にこれを4回やって」と動きのコンビネーションの説明をしたり、手足を動かして動きを教えたりするのを見てテンポを感じ取ります。
次に、何拍子か考えます。3拍子でワルツと言っても、やわらかくてスムーズなワルツもあれば、キレのいいワルツもあります。ワルツではなくマズルカのほうが適していることもあります。だいたいのコンビネーションは32小節で、その他には64小節、16小節ですが、先生の説明や動きを見て計算しなくてはなりません。
そして、雰囲気をつかむことですね。このダンスが伝えたいニュアンスは何か。悲しそうな曲がいいか、お日様が出てくるような明るい曲がいいか。先生から、「次は何か whimsical(気まぐれで滑稽な)曲を2/4拍子で弾いてくれ」とか、小さい子供のクラスだったら「ゴリラがサンバしている感じで」とか「はちみつが身体中にくっついたどろどろの音を」など、いきなりリクエストされることもあります(笑)。
そのすべてを10~20秒で考え、ぴったりの曲を弾くわけです。細かいことは毎回異なりますから、経験を積むしかありません。私の場合、動きを見ると音楽が聴こえます。音楽は目に見えませんが、ダンスは音を見えるものにしてくれるのです。
― クラスを見学させていただいた時に拝見した楽譜のフォルダはものすごく分厚いものでした。かなりの準備が必要ですね。
楽譜のほとんどはバレエ用ではないので、バレエ用に32小節にアレンジして準備しておきます。ショパンならショパンで、バレエ用に自分で変えて弾きます。
90分クラスで20-30曲、1日に4クラスで弾くとなると、80曲は弾くことになります。自分でも同じ曲ばかりだと飽きてしまうので、クラシック、ポップス、ラテン、ジャズ、ブロードウェイのショーの曲など、種類もたくさん用意しています。私自身が好きなのでファイナルファンタジーの曲も入れてみたり(笑)、日本の曲や韓国の曲はきれいなものが多くて喜ばれたりします。PNBを引退した元プリンシパル・ダンサーの中村かおりさんが先生を務めるクラスでは、『ハウルの動く城』『魔女の宅急便』『千と千尋の神隠し』など、ジブリの曲も弾くことがあります。先生の好みも覚えておいたほうがいいですね。
この仕事を始めて、バレエ作品に対する知識や理解も深まりました。先生がステップを見せた時に、「今のは『白鳥の湖』の黒鳥のあの場面だな」「『眠れる森の美女』のライラックの精のステップに似てる」と気づくことができるようになり、その場面の曲を弾いてあげると、先生がとても喜んでくれます。
そうやって経験を積んでいくと、場面にあった曲を弾くということができるようになりますね。その役が死ぬ場面に明るい曲を弾いてしまうとか、逆に明るい場面に死ぬ場面の曲を弾いてしまうとか、そういうことがなくなります。なので、公演も観に行ったり、YouTubeで観たりして、常に勉強しています。
― バレエピアニストの得意とするところはなんでしょうか。
バレエピアニストになって思うのは、これはピアノが弾ければ誰でもできるという仕事ではないということです。度胸があること、アレンジ能力があること、レパートリーが広いこと、即興ができること、臨機応変な対応ができることなどでしょうか。楽譜を覚えていて、ダンサーを見ながら弾けることもそうかもしれません。
レパートリーがたくさんあっても、ぴったりの曲がない時や、先生が何も見せないまま2~3秒で「ハイ、弾いて」と言われることもあるので、そういう場合は即興で曲を作ります。
あとは、絶対に止まらないこと!(笑)何があっても止まらない、ちょっと音をミスしても何があっても止まらない。特に左手のリードが止まると音楽が止まってしまうので、ちょっとぐらい間違っても最後まで弾けることです。
それと、常にダンサーを輝かすために弾いているということを忘れないことですね。ソロピアノと違って、自由にテンポを変えたり、派手すぎる弾き方は控えます。
音楽は私のコミュニケーションツール
― バレエピアニストの仕事は、小栗さんがこれまで培ったことがすべて生きているようです。
そのとおりだと思います。幼い頃からヤマハでやってきた、作曲、クラシックやジャズのピアノのレッスン、ジャズ・スタディ、即興、ジャズのアンサンブルなど、すべてが生きています。
また、リトミックを教えてきたこと、キンダーミュージックの資格を取って子どもを観察しながら子どもにあわせて弾いていたこと、心理学を勉強したこと、ミュージックセラピーを勉強したこと、これまでやってきたいろいろなことがすべて集約されてバレエピアニストになったと思います。
あと、アメリカに一人でポンと来てしまったことでも度胸がつきました。ちょっとしたことではめげません(笑)。
―最後に、小栗さんにとって音楽とは。
私にとっての音楽は、人とのコネクションを作るもの。つまり、コミュニケーションツールです。
大学で学んだミュージック・セラピーでも、言葉を発さない子どもたち、人と話したくないと心を閉ざしている犯罪者、痴呆症の方などのところに行って、音楽を使って心を開くための手助けをすることをやってきました。バーでピアノを弾いていたこともありますが、それもそこで飲食している人たちが気持ちよくなるように雰囲気を作るためでした。そんなふうに、私がピアノを弾く時は人のことを考えて弾いています。
なので、サポート役であることをわきまえて、ダンサーを際立たせるバレエピアニストという仕事は、私にとても向いているのですね。人が好きでないとやっていけませんが、実は自分へのご褒美にもなっています。「自分の音楽が形になったら、もし音楽に形があったら、こんなふうになるんだ」と、ダンサーたちを見ているのがとても楽しいのです。自分も楽しくて、人にも喜んでもらえる。毎日好きなことができるというのは、ラッキーだなと思います。
掲載:2019年8月 写真: Emi Oguri 聞き手:オオノタクミ