子どもの頃から大学まで「野球漬け」
2014年4月、ベルビューに「らーめん山頭火」がオープンした。シアトル・マリナーズの岩隈久志投手も足を運ぶ、日本でも有名なラーメンの名店だ。開店の「仕掛け人」となったのが、米田純さん。新規ビジネスの事業化を手掛ける株式会社プレンティー(本社・東京)の米国法人、プレンティー USA の社長を務める。西武百貨店やプロ野球・楽天の球団代表を経て、50代で米国での外食事業に身を投じた。人生の節目ではいつも、新たな挑戦への道を自らの手で選んできた。
子どもの頃から大学まで「野球漬け」の日々を送ってきた私は、大学卒業後の就職先に西武百貨店を選びました。当時、西武が運営していたスポーツ専門館で野球に関連のある業務に就きたいと希望していましたが、配属先は紳士服とまったく違っていました。
以後、販促マーケティングを手掛ける営業企画、店舗の営業の数値分析を行う本店営業分析といった部署を経て、筑波店(茨城県)販促課長のポストを経験する。野球とは直接縁がなかった16年間の勤務で、後のビジネスにつながる多様なノウハウを蓄積していった。
野球一筋だった私にとって、西武百貨店では入社当初からチャレンジの連続でした。最初は企画書が1行も書けずに徹夜したものです。でも当時の西武は斬新な企画を次々に打ち出していてとても面白く、私も日々仕事に食らいついていました。
営業企画では、厳しい部長がいました。下手な企画を出すと破り捨てられてしまうほどです。ある時、春の新生活の企画として、当時ヒットしていたテレビ番組 『カノッサの屈辱』(フジテレビ系、1990~91年放送)とタイアップした内容を提案しました。すると、いつもは怖い部長が「いい企画だな」とほめてくれたのです。たった一言でしたがそれだけに重みがあり、今でも心に残っています。
本店の営業分析に異動後は、各店舗の営業状況を数値化して分析するため、これまた経験のない「数字とにらめっこ」の毎日。さらに販促課長として移った筑波店で、今度は自分の裁量で店舗の実績を上げるために奮闘しました。その上で本部に戻ったのですが、さまざまな経験をする中で一種の「やりきった感」が芽生えていたのです。
「三木谷さんに会わないか」と誘われ楽天へ
40歳に達して「人生の折り返し地点」と感じた米田さん。新たなステップを踏み出そうかと考える中で興味を持ったのが、楽天だった。
ベンチャー・ビジネスへのあこがれはありました。フットワークを軽くし、行動力で勝負したいと思ったからです。また、営業分析に在籍していた時期からコンピュータを使った業務に携わり、インターネットのパワーを肌で感じてきました。オンライン・ショッピング事業の可能性を強く信じ、楽天に注目していたのです。人材バンクに登録していたところ、「新しいユーザ・マーケティングの部署を立ち上げる楽天の三木谷(浩史・楽天会長兼社長)さんと会わないか」と声を掛けてもらいました。三木谷さんとの面談では、オンライン・ショッピングでの顧客のリテンション(確保)に関して、「顧客がいつ、何を、いくつ買ったかといったログを解析すれば、リテンションのうえで効果があるのではないか」という話をしました。面談を通して、それまで自分が積み上げてきたノウハウが生かせると感じ、2003年2月に転職しました。
楽天は、ベンチャーの香りたっぷりの会社でした。顧客マーケティング業務を担当していたところ、すぐに次の転機が訪れました。2004年にいわゆる球界再編問題が起き、楽天がプロ野球参入を目指すという話が持ち上がったのです。社内で野球に通じていたのは私ぐらいでした。チームの設立にあたって球団代表を命じられたのは、そういった流れからでした。「野球にかかわる仕事がしたい、野球に恩返しがしたい」と若いころから持ち続けてきた願いがかなったのです。ちゅうちょなく引き受けました。
とは言え、球団立ち上げなど初めての経験。時間の猶予はまったくなく、球場もなければスタッフもいない。まずは事情に詳しい人材を外部から集めて組織を固め、会社の会議室に缶詰になって準備に没頭しました。ベンチャーの楽天らしく「新しいことをしよう」というのがモットーでした。例えば、日本のプロ野球で試合終了後にチーム全員がグラウンドに出てファンにあいさつするのは、楽天が最初に始めたのです。地元・仙台の人をひとりでも多くグラウンドに立たせたいと、試合前の国歌斉唱役に地元住民を招待する試みも取り入れました。時間も設備も人も「ないないづくし」でスタートした球団設立準備を、多くの人たちの知恵と行動力で乗り切り、無事2005年シーズンの開幕とともに「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生しました。
グローバルに活躍する若者を育てたい
球団代表は、チームに問題が起きると矢面に立つ役だ。毎年、在籍選手に「戦力外通告」を言い渡すつらい仕事も果たさねばならない。だが選手や監督との交流から多くを学んだという。そして就任から10年、またも人生のターニングポイントが訪れた。
楽天イーグルスは2013年に球団史上初のリーグ優勝、そして日本一に輝きました。私にとってこれがひとつの区切りになったのは否めません。50歳になり、自分の人生の集大成として「何か形として残るものを」と考えるようになっていました。
北海道に本社を構える「らーめん山頭火」は仙台に支社があり、菊田伸一社長とは以前から交流がありました。米国をはじめ海外に出店しており、菊田社長と話すうちに日本の「食」を世界に発信する事業に興味を持つようになりました。一方、日本の若者にもっと積極的に海外に出てほしい、若者を活性化させる場を提供したいという思いも募っていました。球団代表の経験から、球界を去った選手たちのセカンド・キャリアの問題にも接しており、若くして野球以外の道で生きていくためのチャンスを与えたいとの希望もあったのです。
野球と外食産業を比べて、全くの異業種と思われるかもしれません。でも、こう考えてみてください。おいしいラーメン作りという「技」の向上を目指して、店の監督にあたる店長、選手にあたる店員を育て、顧客に質の高いサービスを提供してファンになってもらう。そのための全体のマネジメントは私が受け持つ。これは、野球というパフォーマンスを向上させるために、監督・選手が一体となってファンに素晴らしいプレーを見せようと努力する姿と似ていると思いませんか。熟慮の末、「よし、今度は海外を舞台にチャレンジしよう」と一歩を踏み出しました。
楽天を退社し、プレンティー USA 社長に就任。ベルビューで「らーめん山頭火」の開設準備に奔走した。オープン後も、日米を往復する多忙な日々が続く。
米国の商慣習には、戸惑いもありました。行政の許可がなかなか出なかったり、工事が長引いたりして、これは日本とは違うなと(苦笑)。私を含めわずか3人が、休み返上で踏ん張りました。カリフォルニアをはじめ、米国内では日系スーパーマーケット 『ミツワ』 の中で出店していますが、ベルビュー店は「山頭火」としての独自色を出そうと路面店を構えました。開店間もないですが、ラーメンに馴染んでいるアジア系の人たちを中心としたお客様がつき、最近はアジア系以外の方の来店も増えています。
繰り返しになりますが、私の今の目標は、グローバルな視点で活躍できる若い世代の育成です。ベルビュー店の店長は、現在育てている人材のひとり。大学卒業後にプログラマーとして就職し、3年後にプレンティーUSAに転職した彼は、「らーめん山頭火」の海外進出を知って、腕試しをしたいと名乗りを挙げました。現在の事業が成功して会社が成長すれば、彼のような若者を多く採用して、海外を舞台にマネジメント能力を発揮できる人材を育てていくことができます。
同時に、シアトルに根付く上で社会貢献も重要。プレンティー USA は2014年6月、糖尿病患者支援団体 CR3 Diabetes Associations に1万ドルを寄付し、贈呈式には、この団体のアンバサダーを務めるシアトル・シーホークスのスター、ラッセル・ウィルソン選手らが出席してくれました。スポーツを通して地域に貢献する尊さは、楽天イーグルスで学んだものです。やりがいのある仕事、地域社会や地元の人たちとのつながりを通して、メジャーリーガーのような夢にあふれた「成功モデル」となれる生き方を示し、そこに向かおうと努力する若い人たちを応援できればと願っています。
取材・文:船橋ヒトシ 写真・船橋ヒトシ、K’s Photography
よねだ・じゅん/プレンティー USA 社長。神奈川県出身。小学生の時に野球を始め、早稲田大学野球部では東京6大学野球で優勝を経験。西武百貨店に入社し、本店営業企画、筑波店販促課長などを歴任。2003年に楽天に転職し、東北楽天ゴールデンイーグルスの球団代表に就任する。2013年には球団史上初のリーグ優勝、日本一を経験。2014年より現職。
【公式サイト】 らーめん山頭火