社会学を学ぶために渡米
私が渡米したのは、慶応大学で社会学を専攻していた時に、シカゴ大学で博士号を取得されたゼミの担当教授から「社会学を続けたいのであれば、アメリカに行った方が良い」と言われたのがきっかけです。と言うのも、我々が学んでいた社会学というのはアメリカのシカゴ学派という、実験検証をしながら研究を進めていくものだったからで、大学卒業後にワシントン大学大学院の修士課程に入り、都市計画学で修士号を取得しました。アメリカの都市計画学では実際に都市の線引きをしたりといったこともできますが、都市というのは人間が作っているわけですから、そもそも非常に社会学に近いもの。そのようなわけで都市計画学に変更したのです。
言葉でのコミュニケーションに対する興味
「それでもどうして今、日本語教育に携わっているのか」とよく聞かれます。言葉には最初から興味があり、言葉で問いかけ、相手の言葉から内容を把握する、こちらが発した時に相手の反応を見るという、言語社会学というものにそもそもとても興味がありました。慶応大学の卒業論文もそうですし、ワシントン大学に来てからの修士論文、そして博士課程での論文も、インタビューを通じて人の意見を吸い取っていくという手法を使っていますので、自分の中では言語教育に携わることには、大きなギャップはないのです。
特に博士課程での研究は「人の住居に対する満足度はどこから来ているのか」がテーマで、シアトルと神戸の低所得者向け公営住宅に住む人を30分にわたりインタビューをして録音したものを文字に書き起こして、「この人はこの質問にはこういう言い方をしている」「この人は違う質問をしても同じ答えをしている」と、その人の住居に対する満足度を拾っていくという作業が必要だったことも考えると、常に言葉でのコミュニケーションがテーマになっているのです。各都市50人、合計100人をインタビューしましたが、神戸市では家の中まで入れてくれたのは4人。市役所の住居課から来た人だと思われ、低所得者住宅は暮らしが良ければ出されてしまうと警戒されたようで、なるべく中を見せないようにして玄関での立ち話でした。逆にシアトルの公営住宅では、私は日本人の顔をしていますし、家の中まで入れてくれたのが46人。ビールまで出してくれたり・・・。おもしろいことがありますね。コミュニケーションについて考えさせられました。
日本語教育に携わる、公立高校での日本語教育を開始
1984年に1年だけウェラー・ストリートにある日本語学校で1年教えましたが、ちょうどベルビュー学区で日本語・日本文化のクラスを始めるための教師の公募があったので応募して合格し、ベルビュー高校とインターレイク高校で日本語を教えることになりました。正式に日本語教育に入ったのはそこからです。
今でこそ小学校や中学校から日本語のクラスを提供するところもありますが、当時は高校だけで教えるという状況で、1985年でも州全体で23校か25校しかなかったのが、それから10年後には10倍になりました。バブル経済の最中にあった日本に対する注目が高まっていたこともありますし、シアトル・ワシントン州の地理的条件がその理由だということもあったでしょうね。
今はアニメや漫画が好きで日本語を始める学生が多いと思いますが、その頃はアニメも本当に好きな人ぐらいしか知らなかったぐらいで、親が日本に関係のある企業に務めている子供たちとか、将来を鑑みて日本語をやっておいたほうがいいのではないかと親に言われた子供たちなど、ゼロから日本語を始める高校生が対象でした。今は学校の統廃合などもあって200校以下になっており、学習者人口こそハワイ州やカリフォルニア州が多いとは言え、ワシントン州は日本語を教えている高校の数が全米で最も多い州なのです。
高校生の日本語スピーチ・コンテストでも、日本語がとても上手な学生がいますよ。丸暗記では困りますから、本当に話していることがわかっているのか確認するため、私が質問をするのですが、今年は昨年よりもレベルが目に見えて上がっていて、3年生や4年生できちんと質問に答えられる学生が多くなっていました。去年か一昨年だったか、「日本の食べ物で1番好きなもの」というスピーチがあったのですが、1番目はうどん、2番目は味噌汁。そこで「3つ目はなんですか」と聞いたら、どうもわかっていなかったようで、また「うどんです」という答えが返ってきました。ですから、「よっぽどうどんが好きなんですね」と言って質問を終わりましたけど、今年はレベルが上がってきています。
このワシントン大学の日本語学習者の人口も、上のレベルに行けば減るというピラミッド型ではなく、どちらかというと台形のような構成です。高校で4年間にわたり日本語を学んでくる人もいるので、上級でもかなり数が多いのです。ですからワシントン州には日本語学習が定着していると言えると思います。
アメリカで新しい文化に出会う
1976年に渡米し、教職に就くまでに既に9年間アメリカに住んでいたわけですが、大学生だった自分とアメリカの文化の接点は限られていたのだとわかったのは、公立学校で教え始めてからです。高校生という若いアメリカ人だけでなく、その親、そして学校を中心とした地域との接点が増え、「9年目にして初めてアメリカ文化に接した」という感じがしました。
いろいろなところで話す機会がある時に言う例なんですが、ベルビューで教え始めて1週目にある出来事がありました。学級崩壊が進んでいるという今の日本ではどうなっているのかわかりませんが、私たちが日本で学校に行っていた時代では「クラスで物を食べてはいけない」「トイレに行く時はきちんと言ってから行く」といった規則を先生はいちいち言わなかった。生徒もそういうことはわかっていたわけですから。それで私も、「相手は高校生だし、そんなことまで言わなくていいだろう」と思っていましたから、ルールはほとんどなくてグチャグチャでした(笑)。
そして1週目にクラスを始めたら、片隅でポテトチップスを食べている学生がいたんです。朝が早いですから、朝ごはんの代わりにでもしてたんでしょうか。私は時々、彼をにらむような感じで見ることにしました。いわゆる日本の「察し」の文化ですよね。「わかってくれるだろう」と思っていたんです。しかし、彼はこちらを見ても、「先生が “いけない” と言っている」とは察してくれない(笑)。それでも私がたびたび彼をじっと見ていたら、やっとこっちを見て、「あ!」という顔をしたので、「ようやくわかったか」と思ったら、彼は “Do you want some?” (ほしいの?)(笑)「ぜんぜん違う文化に飛び込んだんだな」という感じがしましたね。それからはこちらもいろいろわかってきて、ルールとしては書かなかったものの、話をしながらわからせていきました。
私が教え始めてからの2~3年は、学校のカウンセラーが「新しい言葉でも大丈夫だろう」と言われた生徒だけが日本語のクラスに入ってきていました。しかし、4~5年目になると、「日本語は誰でもとれる」ということになったようで、それ自体はいいことなのですが、とても大変な生徒も増えてきました。ここで言う「大変な」というのは、躾(しつけ)の面でです。「言葉を教える立場の自分が、どうしてこんな生活面のことまで言わなくてはいけないんだろう」という疑問も出てきましたね。
後で聞いたところによると、アメリカの公立高校では1時間のうち30分ぐらい授業ができればいいんじゃないかというクラスも多いらしいです。でも、私のクラスでは、起立・礼もして、そこからはきちんと日本語のクラスだという気持ちになってもらうことが大事だと考えていました。公立学校では校長先生などが授業中に教室のドアを開けて、勝手に生徒を呼び出すんですよ。私はそれにすごくびっくりして、「とにかく授業が始まったら生徒を出さないでくれ」と校長先生に頼みました。まるで自分のものを取っていかれるようで、すごく侵害された気分でしたね。
もう一つ、アメリカだなと思ったのは、大人も子供も「面白いことをやろう」という気持ちがあること。教え始めて2年目に長男が生まれたのですが、その子が1歳になったころのある日、授業に行こうとしていたら、校長先生に「ちょっと来てくれ」と呼ばれたんです。でも授業が始まるベルが鳴って、「もう行かなくては」と言っても、校長先生は「まあまあいいから。日本語のクラスはどうかね」なんて話してるんですよ。5分ぐらいしたら「もう行っていいよ」と言われたので急いで教室に行ったら、教室が真っ暗。「あれ?」と思って電気をつけたら、生徒たちが私の息子の1歳の誕生日を祝うためにケーキを持ってきてくれていたのです。そこに家内と息子もいて、知らなかったのは私だけでした。生徒が校長先生まで巻き込んで、そういうことを計画していたのですね。日本では考えられないことです。
私はどうしても日本人ですし、何年アメリカにいても日本人であることから抜けきることはできませんので、クラス外でも学生に関わろうとする姿勢が強かったようです。例えば土曜にスポーツ・デーをして、子供たちを集めてサッカーをしたり、1学期に1回は 『Kato’s Kitchen』 というのをやって、みんなで何かを作って食べたりするようなこともしていました。いろんな文化を学んだとは言え、その文化も一部に過ぎないでしょうが、9年間の学生の時にはできなかった経験をさせてもらいました。非常に面白い反面、親は熱心ですから、緊張しましたね。あっという間でした。
ワシントン大学の科学技術日本語プログラムへ
ワシントン大学での日本語プログラムは1991年に開設されたのですが、そのディレクターである筒井先生が「テクニカル・ジャパニーズの日本語プログラムを新しく設立するので、一緒にやりませんか」と誘ってくださいまして、こちらに来ることになりました。
このテクニカル・ジャパニーズのコースはワシントン大学の日本語教育では最終プログラムとして位置づけられているため、高校で学んだ時間も含めると6-7年も日本語を勉強し、読み書きもできれば話すこともできる人たちのみが履修できるようになっています。特にこのテクニカルジャパニーズでは待遇表現の理解を促進させることも大きな目的の一つですから、卒業したらすぐに日本の会社で日本語で日本人と仕事をするのに問題がないというところまで持って行かなくてはなりません。
かれこれ20年近くここで教えてきましたが、生徒たちは同じようなタイプの問題を持っていることが多いですね。1つは言葉の裏にある「文化」への理解不足が見られます。いわゆる芸能・芸術の文化ではなく、言葉を運用する上で知っている必要がある文化です。例えば前述の「察し」もそうですが、「遠慮」もそう。表現力も語彙もあり、文法もしっかりしているのに、「え?こんなことがわかっていないのか」ということがあるのです。
例えば、目上の人に向かって「ごめん」「ご苦労様でした」「ありがとう」と言う表現を使うのは適切ではないなど、どういう時にどういう言葉を使うかを把握しきれていない。ワシントン州日本語教師会でも常々話しているのですが、待遇表現というものは必ずしも上級のクラスで教えるものではなくて、ゼロのところから教えてもらいたいものなのです。例えば高校で、生徒と仲良くなりたい先生が、「ジョン君、おはよう」と言ったことに対し、生徒が「先生、おはよう」と言うことを許してしまうことがあってはいけないと思うんです。「おはようございます」でも十分親しい関係が作れるわけですし、目上の人が生徒に「おはよう」と言わせておいたら、後で困るのは生徒ですから。そういった待遇表現を学んで、文化的なことも文法的なこともわかれば、すばらしい話者になると思うんです。ですから、高校の段階から、言葉を支えている文化をもう少し丁寧に教えたらいいと思います。
言葉とは
やはり言葉というのは、「何を言うか」「どう言うか」「どうしてそう言うのか」という3つがしっかりと理解できないと、結局機能しないものです。だから、日本の大学生もできていなくて、就職してから困ってしまう。
私たちの役割というのは、アメリカ人というか日本語を母国語としない人たちを日本の型に押し込んで日本人らしい人を作るということではないですが、せっかく日本語を勉強している人には、そういったことを教えた方がいいのです。例えば何ヶ月かのお客さんで日本に来ている外国人なら、「日本語をわりとよくしゃべる外国人で、そこかしこで間違いにはカチンと来るけども、お客さんだから、まあいいか」と思ってもらえるかもしれない。でもそういう程度のものを目指しているわけではない学生も多くなってきています。1年間も日本に行ったり、ここの学生だって日本の会社に雇われる人も増えてきています。そうするとやはり場と人間関係を理解した日本語を話せないと困るのは本人です。それを支援するのが我々の役割なのです。
今まで蓄積してきたかなりの量の文法をもう一度整理して、さらにきっちりとした文法を身につけてもらうのも目標の1つ。残念なことに、日本に1年留学して帰ってきて入ってくる学生の中には、内容や正確さはともかく、「ぺらぺら」しゃべれる学生も結構いるんです。何年か前の学生ですが、「来週、最初のクイズをやります」と私が言うと、「え~、先生、マジー?」と言うんですね。私のクラスではこれはダメです。他の学生にも共通した問題だと思えば、はっきりとその場で注意します。場が違えばいいですが、会社の上司や学校の教師にはダメと。
日本に留学したりインターンシップしたりする機会が増えてきていますが、日本から帰ってきたアメリカ人に「先生、その言葉は死語です」と言われることもあるんですよ。でも、彼らは限られた範囲での言語生活をしてきたことを理解する必要がありますね。青山学院で1年間勉強している間、友達同士の会話では使わなかったのでしょうが、社会に出ればちゃんと使われている言葉もあります。我々だって普段している言語生活の範囲を超えたものを知っているわけではありませんから、彼らがそうなるのは仕方ないことなのですが、死語だとか、年寄りの言葉だとか、そういった間違った知識をクラスで広められると困りますので、きちんと例を出して納得してもらわなくてはなりません。
テクニカル・ジャパニーズ・プログラムは、はっきり言って厳しいクラスです。プレースメントテストを終えて入って、少しまちまちだとは言え、かなりの日本語力を持った学生が来るわけですから、よく勉強していますし、言葉の本質を突くとてもいい質問が出ることもあり、適当に答えることはできません。私自身もクラスへ行くまでは毎回緊張しますが、そういう学生を教えられるということは幸せです。手前味噌のようですが、学生のコミュニケーション力を見るとびっくりしますよ。十分日本で仕事ができると思います。もちろん、例えば「拝見させていただいてよろしいですか」を、最初は「拝見させてもよろしいですか」といった間違いをしてしまう学生もいますが、敬語は大きな柱の1つですから、きちんと勉強しています。
1学期の後半ぐらいになると、「先生と話すのが怖い」という学生が出てきます。「いや~、それはいいことだね」と肩をたたいてあげるのですが(笑)、それはやはり自分の発話している言葉に注意が行くようになってきているという証拠なのです。それまでは、「私の口から出てしまったものに責任はとりません」という態度で、「ただペラペラと何かをしゃべることができればいい」という感じだったのが、自分がどういう言葉を話しているのかということに注意が向き、気をつけてしゃべるようになったんですね。そうしたら、しめたものです。つまり、前述の、「何を言うか」「どう言うか」「どうしてそう言うのか」の中で、「どうして」というところがやはり難しい。「ああーそうだったんだ」という時の学生の顔を見るのがうれしいですね。空がパッと晴れた感じです。
教えることは終わりのない実験
毎秋22名ぐらいの学生を入学させますが、学生の構成、日本語力などは毎年違いますので、同じシラバスをそのまままた使うことはできませんし、同じものでいいとなることもないですね。
教師にとっては、クラスを教えるというのはある種の実験です。こういう教え方をしたい、こういう教え方をしたらより簡単に理解してもらえるのではないかと、クラスでやってみるんです。月並みな言い方ですが、教えることにはきりがない。いくら準備してもやはりまた新しいことが起きる。それは、実験をした結果の発見があるということです。「教育というのは、その人の将来に触れること」とよく言いますが、今日教えたことは明日すぐできるようになるわけではない。それをこつこつとやって、卒業して就職して、何年後かにこういうことができた、教えてもらったことが役に立った、ということなんですね。教師としてそういうことが楽しみなのではないかと思います。
新たなチャレンジ 継承日本語講座
昨年から継承日本語講座という夏だけの講座を開設したのですが、両親、または片親が日本人の学生で、家庭内で培ってきた日本語で日常会話は(正しくできているかどうかは別として)問題がないけれども、読み書きが十分にできない学生をどうにかしたいという発想から生まれたものです。
こういった学生はあまりにも日本語を話せるために他の学生の迷惑になってしまうということで、アジア言語学科の上級の日本語クラスには入ることができない、でも読み書きはできないので、読み書きができることが条件のテクニカル・ジャパニーズにも入ることができない。1年間にわたって読み書きを勉強しても、まだテクニカル・ジャパニーズに入るレベルに到達しない。せっかく文化もしっかりわかっているし、日本でも通用する日本語を話せるし、もうちょっとなんとかすれば使えるようになるのに惜しい。そういう狭間にある学生が毎年8~10人ぐらいはいたのです。
そこで、「せっかく自分が受け継いだ言葉を就職する前に大学で身につけたい」と思っている学生もいるのではないか、ワシントン州にとってもそういう学生を教えないのは損失だと。そして、社会人としての日本語を身につけるということはテクニカル・ジャパニーズ・プログラムのミッションの1つでもあるわけですから、昨年に開設しました。受講者は去年は9人、今年は4人。ワシントン大学がちゃんとしたコースを設置する必要があると思うのですが、ワシントン州では継承語を教える高等教育はそれまで皆無でしたから、これは新しい試みと言えます。
この講座では2本の柱があります。1つは、待遇表現を中心とした、社会人として恥ずかしくない言葉遣い。もう1つは語彙の習得。この講座で教えてみてわかったのですが、このコースをとる学生は、語彙量はあっても、音から入っている言葉が多いので、文字でその言葉を見た時にわからないのですね。会話では「設置する」「延期する」など言えるんですが、文字と音と意味がくっついていないため、文字で「設置する」「延期する」を見てもわからない。でも、音と意味はしっかりくっついているけれども、文字ともくっついている語彙量はがくんと減る。ですから、この講座では新聞の記事をものすごく読ませます。いきなり読ませて内容を把握する初見読みもします。やみくもに語彙を増やしても仕様がないのですが、中上級は語彙の量が勝負ですから、2週間ごとに1つのユニットとし、ユニットごとにトピックを決め、語彙を増やします。
ロボットというトピックでは、機能、自立機能、介護、そういった言葉が何度も出てくるので定着していき、2週目の最初と最後では読むスピードも違ってきます。音楽やスポーツもテーマになります。そういうやり方をしていけば語彙が増えていく、そういうことがわかってくれればいいと思っています。また、クラスでは学生が話している時のビデオを撮影し、私がフィードバックをする前に、学生自身が自分のパフォーマンスをじっくり見て間違いを探すという方法を採っています。自分ではわからない、意外な動きをしていることがありますから、ビックリすることもありますよ。自宅からでもそれを見られるようにしていますし、何度も見られるので、とても役に立ちます。
これからの抱負
このように何年かこの継承日本語講座をやってみて、「ニーズがある」「大きな意味がある」ということを大学側にアピールし、できれば夏の集中講座にしていきたいですね。そして近いうちに大学が年間を通した定常のコースを設置してくれればいいと思います。実際、ワシントン大学には日系人の学生も多いわけですから、そうするのが当然だと思います。
そして、何度も言いますが、きちんとした待遇表現のできる学生を育てていきたいですね。それと同時に、今の日本ではどう言う言葉が使われているのかを研究することも必要です。例えばITやメディアの会社ではあまり敬語を使わなくなってきているといった傾向がありますが、商社や銀行のように渉外関係が多いところでは、敬語はやはり非常に大切です。先日、日本に帰国した際に、あるレストランでウェイターが私に「何をいただきますか?」と言うんですよ。よほど「いただきますは謙譲語だろう!」と注意したくなりましたが、今は本当に謙譲語ができない人が多いらしいですね。でも、だからと言って日本語を学ぶ人もできないままでもいいということはありません。
このプログラムが開設されたそもそもの目的は、ワシントン大学で機械工学を専攻し、後にフォードの会長に就任したドナルド・E・ピーターセンが、通訳を介さずに日本語で日本の技術者とコミュニケーションを取れる人を育成するというものでした。それがやはり今でもきちんと基本として生きていますし、究極的にはそこに戻るのです。
もう1つ、これから力を入れて行きたいのは、日本語の遠隔教育です。ワシントン大学でも2年間にわたりやってみたものの財政難で中止となりましたが、これからでも遠隔教育はいろいろな形でやってみたいですね。例えば、社会人で3ヵ月後に日本に行く予定がある人は、大学に入るわけにはいきませんし、語学学校との両立は難しい。そんな時にオンラインのコースがあればいいですよね。私はやはり教師ですから、そこから出てくる教育的効果や、クラスとは違った効果があるのかどうかといった研究にも大いに興味があります。うまく行ったらそれこそおもしろいものになると思います。
加藤 眞司(かとう まさし)
1976年に慶応大学社会学部を卒業後、渡米。1981年にワシントン大学で都市計画学部の修士号を取得し、1985年にベルビュー学区の日本語教師、1991年にワシントン大学工学部テクニカルコミュニケーション学科科学技術日本語プログラムの準ディレクター/専任講師に就任し、現在に至る。1989年から1992年まで日米協会による高校生のための The Total Immersion Japanese Language and Culture Camp のディレクター。現在、ワシントン州日本語コンテストの審査委員長も務めている。