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「挫折が生きるパワーにつながる」古川享さん 日本法人マイクロソフト初代社長・慶應義塾大学大学院教授・鉄道写真家

古川享さん

2014年の講演「若者たちの描く未来に期待する」が大好評を得たことを受け、2015年8月15日に講演「若者のチャレンジを応援する」を行う古川享氏。日本法人マイクロソフト初代社長、慶応義塾大学大学院教授、鉄道写真家など、輝かしく多様な経歴を持つ。その精力的なエネルギーの源はコンプレックスだと言う古川氏が、人生のターニングポイントとなった3つの転機について語ってくれた。

学業で挫折。這い上がるためにコンピュータの道に

僕の人生で最初の転機は、大学で学んだ分野ではなく、コンピュータ関連の仕事に就くことを決意した時です。

そもそも僕の高校は進学校で、東大に行って商社に入るか弁護士になるのが普通の人生だと考えられていたのですが、そこであえて演劇や芸術など「おかしなこと」に傾倒する生徒も30人ぐらいいて、自分もその一人でした。当時、サリンジャーの 『ライ麦畑でつかまえて』 の主人公ホールデンを究極の姿だと思っていて、人を傷つけてまで競争に勝つ人生に魅力を感じなかったのです。

自分の母親が DV 被害者だったことをきっかけに大学で心理学を学ぼうと受験したのですが、英語の成績がひどかったのと、予備校の代わりにパチンコや鉄道博物館に行っていたため、結局3浪し、学業では完全に挫折していました。就職を考える時になって、このままだと周回遅れの人生が一生続くなと思いました。

そこで、当時(1970年代後半)趣味でやっていたマイクロ・コンピュータ業界に目を付けたのです。弁護士になっても、医者になってもその道のプロと戦わなければならないけど、マイコン業界にはまだプロがいなかった。「3浪をした自分が一気に巻き返すには、未開発の分野に行けばいい」と思いました。「ここで何かを極めれば、自分が1位になれるかもしれない」と。

心理学とコンピュータには共通点もあります。人格形成に関わる子育てにおいて、親と子が交流し影響を与えあうのと同様、コンピュータを通して人と知り合い、情報交換し、互いに影響し合うことができるのです。当時、コンピュータの価値は生産能力の向上がメインで白衣を着た研究者が使うものでしたが、僕は「コンピュータは最終的にメディアになる」と信じていました。それまでの新聞やテレビなどとは違って、誰もが情報の受信者であり発信者になり得るインタラクティブなものとして、人と人をつなぐ道具だと考えていました。

心をポキッと折られるような挫折から社長に

2度目の転機は、コンピュータ関連の出版社アスキーから、日本法人マイクロソフトに転向してみないかと言われたことです。初代社長になるよう打診されたのです。

といっても、社長就任のオファーがすんなり来たわけではありません。その2年前にはビル・ゲイツに公の場で罵倒され、シアトル本社に出入り禁止を言い渡されていました。

そもそも最初の職場であったアスキーでは、雑誌の編集者、プログラマー、UNIX(OS)や日本語ワープロ「一太郎」の開発支援、プロダクト・ディプロメントなど、8年間かけていろいろな職種を経験していました。

その一環として、1984年冬にシアトルで行われたマイクロソフト社員のパーティーに、当時「アスキー・マイクロソフト」という名の日本法人の一員として僕も呼ばれました。今年も日本での売り上げを褒められるだろうという気持ちで出向いたのですが、その席上で、ものすごい形相で近づいて来たビル・ゲイツに「お前はうちの方針と関係ないものを取り扱って業務を邪魔している」「裏切り者だ」「出て行け」と、1分間に30回ぐらいFワードを連呼する勢いで怒鳴られました。内部からの不当な告げ口もあり、僕の業務戦略が理解されなかったのですが、信頼していた人に心をポキッと折られるような挫折感を味わいました。

しかし、1986年にマイクロソフトが日本に子会社を作るため現地社長を探す段になって、「やっぱり、マイクロソフトのことを一番わかっているのはお前だ」とビル・ゲイツに言われました。「今更何を?」とも思いましたが、アメリカ本社に牛耳られない日本の会社を作ろうと思って、「人事権には口出ししない」など条件付きで引き受けました。

死を意識した時、残しておきたいと思ったもの

3つ目の転機は、2度の体調不良を経て方向転換したことです。

1度目の体調不良は、日本法人マイクロソフトの初代社長として経営に従事していた時。物を売るとかシェアを広げるというの、すごく疲れる仕事です。社長だった5年間で毎年業績を上げていたのですが、真っ黒だった髪が真っ白になりました。ストレスから来るプレッシャーで血圧が高くなって、お尻が切れて大量の血が出たり、一時的に目が見えなくなったりもしました。

もともとセールスへの貢献より未来のコンピュータを作ることがやりたかったので、本格的な経営を次の社長に譲り、会長職につきました。しかし、 社内の軋轢によって、最終的に自主退職することになった。その時もすごい形相で近づいて来たビル・ゲイツに、「なぜ突然辞めるんだ、なぜ僕に相談しなかった」と言われました。結局、ビルの提案で、その後数年はマイクロソフト本社付けで、彼のアドバイザーとして働きました。これまで日本とシアトルを400回は往復していますが、実際に住んだのはその数年間だけです。アメリカに家を建てたりして、骨を休めた時期でもありました。

後に実業界を完全に卒業するのですが、マイクロソフト時代の私は、「勝負に勝たなければならない」という場面に無理矢理自分をはめてしまっていたと思います。その世界を離れてみて、「コンピュータを使って人に勝つ」のではなく、「コンピュータを使って人と人とのコミュニケーションをスムーズにしたり、自分の生きてきた姿を後世に残す」ことができたらいいなと思うようになりました。

それをより一層強く感じたのが、昨年の8月に脳梗塞をわずらった時です。2度目の体調不良です。「半身不随は確実、死んじゃうかもしれない」と思いました。三途の川の手前まで行って、まだ残しておきたいものがあると思ったのです。

例えば、iPod ができた時に僕は「すごい、これは永代供養になる」と思いました。自分が死ぬ時に500万のお金を残しても、すぐなくなってしまう。墓石を作っても、誰も見向きもしてくれない。でも iPod の中に5万円分のデータを委託しておいて、まだ見ぬひ孫とかが18歳になった時に、ひいおじいちゃんからメッセージが届くんです。「僕が18の時はこんな映画を見て、こんな音楽を聴いていたんだよ」って。

こういう話をすると、今の学生たちは「そのアイデアをいただいちゃってもいいですか」と言うのですが、それが本当に嬉しいことなのです。自分は今50個ぐらいそんなアイデアを持っていますが、残りの人生で全部実現できるわけではありません。ただ、僕の話を触媒として聞いてもらって、それによって若い人が自分の中で化学反応を起こし、将来的に何らかの形にしてくれればいいと思っています。

鉄道写真家、サム・古川

僕は自分のことを鉄道写真家だと思っています。以前コンピュータ博物館で学生相手に解説をしていたらそこのキュレーターに「お前は何者だ、なんでそんな詳しいんだ?」と言われた。で、「サム・古川」だと名乗ったら、「知ってるよ。お前、有名な鉄道写真家だろう」と。誇らしかったですね。


文:渡辺菜穂子

ふるかわ・すすむ/1954年東京生まれ。麻布高校卒業、和光大学人間関係学科中退。1979年に株式会社アスキーに入社し、出版・ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役就任。1986年日本法人マイクロソフト株式会社を設立し、初代代表取締役社長就任。以来、同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイス・プレジデント歴任後、2004年にマイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務し、パソコン黎明期から日本の IT 業界を牽引してきた。

実業界引退後は後進の育成に力を注いでおり、2007年に情報処理推進機構(IPA)の「未踏ソフトウェア創造事業」のプロジェクト・マネジャー就任。2008年より慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授として、世界的なイノベータとなるべき若者の発掘・育成・支援活動を行っている。また、株式会社イー・ウーマン取締役でもある。

私生活では、幼少より鉄道ファンであり鉄道模型を趣味としている。ヘリコプターをチャーターして撮影した鉄道写真集は評価が高く、海外では鉄道写真家としても有名。2014年夏に脳梗塞を患い、一時半身不随、言語障害に陥るものの、ひたむきなリハビリテーションによって劇的に回復しつつある。

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