トレーナーという仕事との出会い
生まれ育った京都の中学から高校まで陸上競技選手だったことから、将来はオリンピック選手になりたいという漠然とした夢を抱いていました。でも、全国レベルの競争社会はレベルも高く、ケガの多かった自分の成績は思うように伸びていかなかったのです。練習もハードですし、繰り返しケガをする選手というのは、いい選手にはなれないんですよ。
メジャーリーグでも「10代でこういうケガがあったら、将来は何年間しか野球ができない」というデータがあるんですが、当時はそのようなデータはなかったにせよ、ケガをする選手はいい選手にはなりにくいという漠然とした理解はありましたね。今でこそスポーツ医学という分野がありますが、当時は運動で強い学校であっても、根性のような精神論がまかりとおるような部分がありました。確かに忍耐などの精神論はいいですが、それでは競技性は伸びていきません。
当時はトレーナーという言葉もなく、スポーツ・トレーナーという仕事は日本で社会的に認識されていない環境でしたので、針・マッサージ・整体の先生などが今で言うスポーツ・トレーナーに近い立場で働いておられました。ケガの多かった自分はそういう先生にお会いする機会もあり、自分も将来はスポーツ選手に関わる仕事につきたいと思うようになって行きました。その頃、J リーグはできたばかりでしたから、日本でプロのトレーナーと言えばプロ野球しかなく、プロ野球チームのトレーナーになるというのが目標でした。
オリックス・ブルーウェーブのトレーナーとして就職
高校卒業後1年後に関西針灸大学に入学し、一般教養や解剖生理学を勉強し、2回生から東洋医学の概論や針を学んでいきます。針灸マッサージはアメリカでは州ごとに法律で決まっていますが、日本では国家試験。学年を追うごとに専門性が高まりますが、月曜から土曜の朝から夕方までみっちり授業を受けた後は、トレーナーのサークル活動、企業や大学の運動部でのインターシップ、そして家に迷惑をかけないようアルバイトもしていました。
インターンシップをしていた方が現場に近い状態で学び続けていけると考えていましたが、そういうことをしないとトレーナーにはなれないと思っていました。卒業見込みになると国家試験を受け、合格するとプロとして仕事をすることができるとは言っても、当時はプロ野球でも針灸の先生が日曜だけどこかのチームを診たりするような状況で、トレーナーが仕事としてきちんと成り立っている土壌がなかったんですね。ですから在学中はその中で仕事を見つけられるのかどうかがわからないまま、「いつでも準備をしておかなくては」と、いろいろな経験を積んでいたわけです。
そして23歳の時にたまたまオリックスの面接を受けるチャンスに恵まれました。当時は20数人が面接を受けたのですが、僕が最年少。球団からすると、若いから給料が安くていいという思惑がおそらくあったのでしょう。でも、学校内での活動やインターンシップの面は評価されたと思います。
僕が就職した1997年は、オリックスが日本一になった翌年で、イチロー選手を筆頭として選手がみんな非常に有名だったころ。僕自身、そんなところに就職できたことで、最初はちょっと舞い上がってしまったぐらいです。
最初の1~2年は与えられた仕事をして覚えていくわけですが、1年目は一軍、2年目は二軍でリハビリを覚え、自分が思い描いていた世界に来れたことにとても幸せだなと感じていました。マッサージやストレッチ、テーピングやアイスの準備をしたりといった救急救命的な仕事をしながら、リハビリ、そしてケガをした選手を現場復帰させていくための勉強もずっと続けました。
当時、アメリカで 『Athletic Trainer Certified』 という資格を取得して帰国した人たちも少しずつ増えてきていて、そういう人たちから学んだことも多かったですね。当時は日本の12球団で ATC 資格保持者は2~3人でしたが、今は15-20%が ATC 資格保持者、つまり1球団に1人 ATC 資格保持者がいるという、アメリカに近い形になってきています。
シアトル・マリナーズに就職するまで
ちょうどオリックスで4年目が終わった後の2001年シーズンに、イチロー選手がシアトル・マリナーズに移籍することになりました。1999年と2000年にイチロー選手がシーズン中にボールが体にあたるなどしてケガをした時からリハビリの担当をしていた経緯があって、自分も1ヶ月近くにわたりイチロー選手と一緒にピオリアに行きました。
当時はシアトル・マリナーズでは佐々木選手がプレーしていたので、江川さんというトレーナーがおられました。その1ヶ月で、イチロー選手はもちろんですが、他の選手を診させていただく機会もあり、アメリカのシステムに居心地の良さを感じ、アメリカで仕事をすることに魅力を感じました。アメリカって、こういう仕事だけでなく、いろいろな仕事がシステマチックで、責任の所在が明確ですよね。ある意味ドライで、間違ったことをしたら首を切られるけれど、正しいことをしたら誉められる。当時のオリックスは理不尽なことがあっても責任がどこにもない、良いことをしても評価されないといったところがあったので、アメリカでの1ヶ月は大きかったですね。
もっとアメリカにいて仕事をしたいとは思いましたが、日本の球団でも当時はなかなか働くチャンスがない状況で仕事をさせていただいていたのに、27歳になってアメリカでできるかどうかわからないことにトライするのは怖いですよね。日本での生活もあり、いろいろな不安がありましたが、やはりアメリカでトライしたいという気持ちがどんどん募っていきました。その後、911が起きましたが、自分では覚悟をすでに決めていました。「自分がやりたいことをやる、やらなくて後悔するのはいやだ」と。
オリックスは当時、人員補充が大変な時で強く引き止められましたが、無理を言って辞めさせていただき、「結果的に仕事は見つからないかもしれないけれど、アリゾナ州立大学に通いながら、シアトル・マリナーズ傘下のピオリア・マリナーズでインターンシップをさせてもらう」ということで渡米しました。
ピオリア・マリナーズからシアトル・マリナーズへ
まず言葉の問題がありましたので、とりあえず仕事を覚えるまでヘッド・トレーナーの指示に従うことから始まりました。でもすでに1ヶ月にわたりそこで働いた経験がありましたので、逆に向こうから日本のやり方を聞いてきたり、針やマッサージを求められました。マリナーズは特に日本人選手がたくさん来ていたこともあって、東洋のものに対する理解もあり、オープンでもありました。僕にとってはとてもやりやすかったですね。
それがそのまま就職につながるわけではないのはわかっていたのですが、1年間のインターンシップの最中、夏休みなどに何度かシアトル・マリナーズを訪れるたび、「タコマ・レイニアーズで仕事があるよ」などと言われるようになったのです。学生として暮らしていく資金も限られ、学生が終わった後の再就職を考えている状況でしたから、何度も「仕事がある」と言われると、それを信じて目指すようになってしまいますよね。そんなわけで、日本の球団からの誘いも断りながらシアトルからの連絡を待っていたのに、結局、来年の人員はすでに決まったと聞かされ、すごくショックでした。
でも当時、シアトル・マリナーズでプレーしていた長谷川滋利さんがカリフォルニア州で経営されていたサプリメントの輸出会社で人手が必要だということで、入社させていただきました。それから彼のパーソナル・トレーナーとしても働かせていただき、時間がある時はシアトル・マリナーズにも来ていました。
長谷川さんの会社が起動に乗り始めた2004年、カリフォルニア州で自主トレをしていたら、今のジェネラル・マネジャーのビル・バベーシ氏から、「トレーナーのポジションが空いた」と連絡があったのです。その前年は長谷川さんがオールスターに行った年で、僕がパーソナル・トレーナーをしていたこと、そしてピオリア・マリナーズでインターンシップもしていたことが功を奏したようです。長谷川さんとの仕事も楽しかったし、どうしようか迷ったのですが、長谷川さんが「こういうチャンスはめったにない、とりあえずやってみたら。今後、どういうビジネスをするにしても、メジャーリーグで働いたことが違いを作る」と言われたので、自分がアメリカに来た夢を叶えるということもあって、シアトル・マリナーズへの就職を決めました。2004年の春季キャンプの直前に連絡があったので、そのままピオリアへ。選手も職員もみんなもう知った顔でしたから、スムーズに仕事を始められたと思います。
アシスタント・トレーナーの仕事
シアトル・マリナーズでは、ヘッド・トレーナー1名、アシスタント・トレーナー2名、理学療法士1名の4人のメディカル・チームで動いています。ヘッド・トレーナーがチーム・アプローチを決め、その他3人は常にヘッド・トレーナーに報告はしますが、イチロー選手と城島選手という才能豊かな日本人選手を含め、25人の選手をまずケガなく1年過ごしてもらうようにし、さらにパフォーマンスが毎年向上していくような状態でいてもらえるようにするのが仕事です。
でも故障者リスト(DL)に入った選手に関しては、メディカル・チームで何度もミーティングを行って復帰へのプランを決め、細かい担当を決めていきます。今、メジャーリーグでは選手の平均年俸が3億円なんです。ですから、1日でもケガをすると、それだけチームにかかる負担が大きいんですよ。でも、昨年のマリナーズは DL もほとんどなく、30球団で1番良かったぐらいです。DL を出さないことは、今の僕の仕事での大きな目標であるのです。
ナイトゲームが午後7時から始まるとすると、僕は午後12時半ぐらいから球場に入ります。それからアイシングの用意やテーピングを並べたりなどといった雑用的な仕事があります。午後1時過ぎになると、イチロー選手などいつも早く来る選手が球場に入り始めます。すぐにマッサージを受ける選手もいれば、ストレッチをする選手もいますし、自分でトレーニングをした後にマッサージと、選手はそれぞれで動きます。全体練習が午後4時からで、僕たちは選手が危ないことをしないか、おかしな動きをしている選手がいないかなど、常に25名の選手の動きを注意して見ています。
特に、一軍と二軍の境界線に近い選手は、代わりの若い選手と交代させられる可能性が高いので戦々恐々としていますから、悪いところや痛いところを隠すんですね。ですから、メディカル・チームは観察力が必要です。練習の後には軽食を取る時間がありますが、試合が始まる前はトレーニング・ルームに選手が入れ替わり立ち代り入ってきますので、あわただしい時間です。試合が始まると、試合の中で事故が起こったことを想定して2名のトレーナーがベンチ入りをしますから、試合が終わるまで気が抜けません。
日本のプロ野球では試合後に治療がありますので帰宅は午前零時を過ぎますが、アメリカでは何か問題がある選手以外はすぐに帰宅するので、午後11時半には帰宅できます。遠征にももちろんついていきますし、勤務時間もそう変わりません。ホームでないだけに1日目は準備に時間がかかりますが、それ以外は同じです。オフシーズンではファイリングの作業がありますが、それが終わればシーズンが終わります。
トレーナーの仕事とは
トレーナーになりたい人は日本でも約3万人いると言われていますが、「トレーナーになりたい」という若い世代と話をすると、トレーナーというのは、「選手と重なり合う存在」「まるで選手と同じ」「有名選手と仕事をしているからすごく収入がいい」「特別な存在」と、大きな誤解が生じていることに気づきます。
トレーナーという職業の方がテレビにちらほら出ていることから、タレントの一種のように見てしまうのかもしれません。実際のところ、確かに選手には近い場所で働いていますが、トレーナーという仕事は長時間労働で、献身的な仕事が求められる、地味な裏方的な仕事。勉強量もすごく、実習でもかなりの経験が必要になってきます。選手とは収入も生活環境もまったく違います。華々しさを求めてやる仕事ではないのです。
自分の社会的使命
そのようなわけで、トレーナーという仕事を日本で認知してもらい、さらに興味を持ってもらい、次の世代のトレーナーを育て、その人たちの就職先を増やすことにつながるよう、まず僕がオフシーズンには日本各地で講演をしたり、プロのトレーナーと勉強会を開いたりしています。それはトレーナーという仕事が成り立っているアメリカで働いている自分の使命であり、役割ではないかと思っているのです。
アメリカのように高校や大学レベルでトレーナーを採用している学校は、日本では5校ぐらいしかありません。日本ではトレーナーの教育レベルも幅がありすぎますので、アメリカに勉強しに来ている人も多く、そういう人のためのセミナーなどももう4年ぐらいやっています。トレーナーのレベルが高ければ、将来的に、学校や病院、ジムなどでトレーナーの需要が増えてくるかもしれません。これから日本で最低でも大学に1名ぐらいはトレーナーがいるような環境作りをみんなでやっていきたいですね。
今の仕事はもちろんとても大切に思っていますし、今の環境はとても満足しています。講演や勉強会などのような教育的なことは次世代を育てていくためにも、続けていかなくてはならないと思っています。その他には川崎病支援研究所の理事としてのボランティア活動を続けています。
2007年はチャリティ・ゴルフを開催し、城島選手にも参加してもらいました。僕は無宗教なので、アメリカで行われている宗教活動でのチャリティには関心がありませんでしたが、アメリカで実際に働いてみて、そういう気持ちは多少必要かなと思うようになったのです。そんな時、たまたま川崎病の発見者の川崎先生とお会いすることができ、このボランティア活動をするようになりました。そうしたことも、僕という人間の使命だと思っています。
森本 貴義(もりもと・たかよし)略歴
1973年 京都生まれ、関西針灸大学(現・関西医療大学)卒業
1997年-2001年 オリックス・ブルーウェーブでトレーナーとして勤務
2002年 ピオリア・マリナーズでインターンシップ・トレーナー
2003年 長谷川滋利さんの会社に入社、長谷川さんのパーソナル・トレーナーも務める
2004年 シアトル・マリナーズのアシスタント・トレーナーに就任し、現在に至る