シアトル美術館で「未知の世界」に飛び込む
英語で伝える面白さを実感し始めたころ、「シアトル美術館でキュレーター(学芸員)を募集している」という話を耳にした。軽い力試しのつもりで、生まれて初めて英語で書いて送った履歴書。ほどなく美術館から連絡があり、2度の面接を経て「job offer」を受けた。
海外で働いた経験などなかったので、当時は job offer という言葉の意味すら知りませんでした。シアトル美術館での仕事がどんなものかもよく分からず、すべてが未知の世界。だからこそ、何も恐れずに飛び込むことができたのかもしれません。
私が担当したのは、日本・韓国美術部門です。実際に働いてみて分かったことですが、アメリカの美術館では、キュレーターに大きな裁量が与えられます。展覧会の企画、美術品の修復、講演、資金調達など、仕事の幅が広く、結果に対する責任も重いのです。館内のスタッフや地域コミュニティから「彼女のやりたい企画を支援しよう」といった信頼を得るようになるまでには、数年の時間を要しました。当時、私には何の実績もなかったのですから、いきなり信用しろという方が無理ですよね。
睡眠時間を削って展覧会の企画を練り上げたり、夜中に日本の研究者や修復師の方々とやりとりをして、その結果を説明することで館内の了承にこぎつけたり。そうした努力を続け、小さな展覧会の実績を積み重ねていきました。やがて、周囲にもこちらの真剣さが伝わって、地域の方々が手を差し伸べてくれるようになりました。
2003年には、仏教美術の展示を手掛けました。仏像や仏具はもともと美術品ではなく、祈りの空間や儀式の中で使われてきたものです。作品をすべてガラスの向こうに並べてしまうと、それらが何のために作られ、どのように使われていたのかがわかりません。そこで、ギャラリーの一室を仏堂に見立てて作品を配置し、仏像の開眼供養の儀礼を行うプログラムを企画しました。実際にお坊さんたちがお経を上げる空間で、仏教の祈りの場を疑似体験してもらいたかったのです。
このイベントには多くの方が参加してくださいました。開眼供養の様子はビデオにも撮り、展示期間を通じて館内のモニターで流しました。こうした試みは、お寺のご住職や、美術館側のサポートがあったからこそできたことです。来館者にも喜んでいただけて、とても成功した展示だったと思います。
キュレーターの仕事は、周囲の協力があってこそ
アメリカでは、展覧会の責任者であるキュレーターの名前がメディアでも大きく取り上げられる。着任して初めての展覧会を手掛けたときから、白原さんはそのことを強く実感した。
ある新聞のレビューに、「ユキコ・シラハラによるこの展覧会を前任者のウィリアム・ラスバンが見たら、きっと怒るに違いない」と書かれていたんです。アメリカではそのくらい、キュレーター個人の考えや個性が注目されるということなのでしょう。記事の内容には少し驚きましたが、「私は前任者にはできないことをしたんだ」と前向きに捉えました。
前任者のラスバンさんは、「過去のやり方は気にせず、君は君のやり方でやればいい」と言ってくれる人でした。余計な口出しをしたくないからと、私の在任中はコーヒー1杯すらご一緒してくれなかったんです。でも、私が退任する前に開かれた展覧会のパーティーでは、「お疲れさま」と祝杯を上げてくれました。着任してから7年目にやっと、初めて一緒にお酒を飲むことができた。あのときは、本当にうれしかったですね。
キュレーターの仕事は責任が大きい分、プレッシャーも大きいものです。でも、自分を信じて周囲に働きかけ、理解を得られれば、皆が一丸となってサポートしてくれます。費用を集める活動をしてくれたり、プログラムのアイデアを出してくれたり、人を紹介してくれたりするんです。自分がその陣頭指揮をとっていろいろな企画を実現できるのは、大きな醍醐味でした。