展示説明のバイリンガル化に苦心
2008年10月に帰国し、学生時代に学芸アシスタントを務めていた根津美術館に着任。当時、根津美術館では大規模な改築工事が行われており、翌年秋の新装オープンに向けた準備作業が進められていた。国際化に向けた取り組みの中で、白原さんが注力したのが、外国人来館者のための「展示説明のバイリンガル化」だ。
帰国した2008年の冬から、各国の大使館にクリスマス・カードをお送りする取り組みを始めました。館員の直筆サイン入りで、今後予定している展覧会の簡単な紹介も添えます。すると、大使館の方々が覚えていてくれて、母国から友人や公官の方々が来日した際に、根津美術館に案内してくださるんです。休日にファミリーでお越しくださる方もいます。外国人の来館者は新装オープン以降増え、今では全体の約10パーセントを占めるようになりました。
だからこそ、展示の説明書きはきちんとした英語にして出さなければなりません。この「きちんとした英語」というところが、意外と難しい。ただ日本語を英語に置き換えるのではなく、作品の魅力や見方をわかりやすく説明することが重要です。これは、英語と美術史の両方がわかる人でないとできない仕事。だから、自分が頑張ってみようと思いました。
日本や東洋美術には独特の技法や形式があり、これらを英語で正しく伝える作業には苦労します。例えば、一口に「本」と言っても、単純に book と訳せばいいというものではありません。「和綴本」であれば book bound in Japanese style、「画帖」であれば album と訳した方が、作品の概念がより伝わるでしょう。また、日本語は英語に比べてあいまいな言葉が多く、英語に訳そうとすると「これはどういう意味だろう」と疑問に思うことが少なくありません。その場合は執筆者である学芸員に真意を確認し、時には原文の日本語を書き直してもらうこともあります。こうした作業を、年7回の展覧会すべてについて行っています。時間と労力を要しますが、執筆者や翻訳者と話し合いを重ねる中でよりよい表現が生まれ、展示のクオリティも上がると信じています。
現在は、2014年秋に開催する特別展「名画を切り、名器を継ぐ」(会期:9月20日~11月3日)の準備を進めていますが、これも英訳に苦労している展覧会の一つです。巻物から掛け軸へ、画帖から巻物へというように、後に形式を変えた美術作品を取り上げるため、こうした変化を英語で正しく伝えたいと思っています。
美術を通して日本と海外をつなげる
白原さんは今、美術館の学芸員だけでなく、美術を通じて日本と海外をつなぐ仕事にも携わっている。研究者として日本・アジア美術の研究を進めるほか、慶應義塾大学では日本美術史を英語で教える講義を担当。また、複数の専門機関で委員を務め、日本と海外の美術をつなげる役割を担っている。
2011年からは、日本政府による「美術品補償制度」の専門調査会で委員を務めています。この制度は、日本での展覧会のために海外から作品を借りる際、作品に対する保険料を日本政府が国家として補償するというものです。専門委員の仕事は、美術品の輸送や展示の安全性を確認したり、このような制度が日本にあることを海外に向けて発信したりすること。日本で海外作品の展覧会をより開催しやすくするための仕事に携われることに、大きなやりがいを感じています。
国際間で展覧会を行う上では、考え方や制度が異なることも多く、相互理解のための対話が必要となります。例えば、欧米では、作品はケースの中の床にしっかりと固定されるべきだと考えられています。焼き物であれば、たとえ地震があっても絶対に作品が動かないように、作品の形に添ったプラスチックや金属製の「支え」を作ります。一方、日本では、むしろ焼き物が地震で動いても大丈夫なように、作品とケース内の床を細く柔らかいテグス糸でつなぎ止めます。これは、地震によって焼き物が硬いものにぶつかり、壊れたりしないようにという考え方によるものです。作品の展示法ひとつを取っても、こうした哲学の違いがあるのです。
このような違いを、どう相手に理解してもらうか。また、いかにして違いを尊重し合い、信頼関係を深めていけるかということが重要だと思います。単純に、どちらか一方が正しいというものではありません。その意味で、アメリカと日本の両方の美術館で働いた経験があり、双方の違いを理解していることが、どこかで役立つのではないかと思っています。私はハッキリものを言う性格なので、会議では「ああ、白原さん言っちゃった」と周囲をハラハラさせているかもしれませんが(笑)。
展覧会の企画運営をする、国際会議で発言する、美術の研究をして論文を書く、教師として学生に教える。それぞれ異なるスキルを必要とする仕事ですが、頭を切り替えて、一つ一つ誠実に取り組みたいと思っています。与えられた場で、自分の持てる力を最大限に出し切るのが私のやり方。充実した日々に感謝しつつ、これからも好奇心のアンテナを敏感にしながら、仕事に取り組みたいと思っています。
シアトルのお気に入りスポット
白原さんがシアトル在住時からお気に入りだった場所が、ベインブリッジ・アイランド。中でも広大な森林公園「ブローデル・リザーブ」の美しさは強く印象に残っているという。「つい最近、出張でシアトルを訪れた際にもベインブリッジ・アイランドを訪れる機会がありました。短時間でしたが、相変わらずゆったりとした島の様子や新しくできた美術館を見て、うれしくなりました」
取材・文・白原さん写真:いしもとあやこ
しらはら・ゆきこ/神奈川県出身。根津美術館学芸第一課長。幼少期から絵を描くことが好きで、美術に強い興味を抱く。高校卒業後は慶應義塾大学で日本美術史学を専攻。専門は日本仏教絵画史。同大学博士課程修了後、2000年10月よりイギリスのセインズベリー日本藝術研究所に訪問研究員として着任。2002年1月よりシアトル美術館東洋美術部に勤務し、日本・アジア美術の企画展や常設展の企画運営、収蔵品の修復プロジェクトなどを手がける。2008年10月より根津美術館に着任。ほかに慶應義塾大学国際センターで日本美術史を教え、文化庁美術品補償制度部会の専門委員を務めるなど、さまざまな立場で美術に関わっている。
【根津美術館公式サイト】 www.nezu-muse.or.jp