美術に対する好奇心から「美術史」研究へ
東京・南青山にある根津美術館で学芸課長を務める白原由起子さん。2008年秋に着任するまでは、シアトル美術館東洋美術部に7年間在籍し、最後は東洋美術部長を務めた。幼いころから絵を描くのが大好き。自らの信じた道を進む芯の強さは、当時から備えていたようだ。
幼稚園時代、先生に「こういう絵を描きましょう」と言われて反発したことがあります。子供心に「私は自分の描きたい絵を描きたい」と思って、先生が言ったのとはまったく違う、真っ黒な絵を描いたんです。そうしたら、母が幼稚園に呼ばれ、私は色覚検査を受けさせられる羽目になりました。でも、最終的には幼稚園の先生も理解してくれて、母に「この子は絵に特別な思いがあるようですね」と言ってくれたんです。それから、家ではいつも紙とクレヨンを手にお絵かきをするようになりました。
絵を描くことはずっと好きでしたが、中学生になると「自分にはオリジナルの絵を描く才能がないんだ」と悟ってしまいました。そんなとき、美術について研究する「美術史」という学問があることを知って「これだ」と思いました。特に、日本の仏教美術史に興味を引かれました。自分の住んでいる国の美術について知りたいと思いましたし、インドから中国、韓国を経て伝わった仏教美術が日本でどのように独自の変化を遂げたか、その過程にも関心がありました。
「英語で発信する面白さ」を知ったイギリス留学時代
大学で日本美術史を学び、卒業後は商社勤務を経て大学院に進学。2000年春に博士課程を修了したものの、就職先のあてはない。そんな折、指導教官から「イギリスのセインズベリー日本藝術研究所で研究者を募集している」と応募を勧められた。こうして、1年間のイギリス留学生活が始まった。
当時の英語力は、受験英語を学んだ程度。でも、現地に神道学を研究する友人がいて、彼女が私の英語を徹底的に鍛えてくれたんです。発音がおかしいときは必ず指摘してもらい、研究発表の前にはスピーチの内容をチェックしたり、プレゼンのテクニックを教えてもらったりしました。なんとか英語で発表できるようになり、少しずつ自信がついて、「人に伝えることの面白さ」を実感するようになりました。
実は、日本美術の世界では、海外の研究者が日本語を話してくれます。ですから、日本にいるときには、英語で発信することの必要性を感じることはありませんでした。でも、広く日本美術を知ってもらい、議論を深めるには、論文もプレゼンも英語でするべきなのだと痛感しました。「海外に出ると聴衆の範囲がこんなにも広がるんだ」と学ぶことができたのは、大きな収穫でしたね。
シアトル美術館で「未知の世界」に飛び込む
英語で伝える面白さを実感し始めたころ、「シアトル美術館でキュレーター(学芸員)を募集している」という話を耳にした。軽い力試しのつもりで、生まれて初めて英語で書いて送った履歴書。ほどなく美術館から連絡があり、2度の面接を経て「job offer」を受けた。
海外で働いた経験などなかったので、当時は job offer という言葉の意味すら知りませんでした。シアトル美術館での仕事がどんなものかもよく分からず、すべてが未知の世界。だからこそ、何も恐れずに飛び込むことができたのかもしれません。
私が担当したのは、日本・韓国美術部門です。実際に働いてみて分かったことですが、アメリカの美術館では、キュレーターに大きな裁量が与えられます。展覧会の企画、美術品の修復、講演、資金調達など、仕事の幅が広く、結果に対する責任も重いのです。館内のスタッフや地域コミュニティから「彼女のやりたい企画を支援しよう」といった信頼を得るようになるまでには、数年の時間を要しました。当時、私には何の実績もなかったのですから、いきなり信用しろという方が無理ですよね。
睡眠時間を削って展覧会の企画を練り上げたり、夜中に日本の研究者や修復師の方々とやりとりをして、その結果を説明することで館内の了承にこぎつけたり。そうした努力を続け、小さな展覧会の実績を積み重ねていきました。やがて、周囲にもこちらの真剣さが伝わって、地域の方々が手を差し伸べてくれるようになりました。
2003年には、仏教美術の展示を手掛けました。仏像や仏具はもともと美術品ではなく、祈りの空間や儀式の中で使われてきたものです。作品をすべてガラスの向こうに並べてしまうと、それらが何のために作られ、どのように使われていたのかがわかりません。そこで、ギャラリーの一室を仏堂に見立てて作品を配置し、仏像の開眼供養の儀礼を行うプログラムを企画しました。実際にお坊さんたちがお経を上げる空間で、仏教の祈りの場を疑似体験してもらいたかったのです。
このイベントには多くの方が参加してくださいました。開眼供養の様子はビデオにも撮り、展示期間を通じて館内のモニターで流しました。こうした試みは、お寺のご住職や、美術館側のサポートがあったからこそできたことです。来館者にも喜んでいただけて、とても成功した展示だったと思います。
キュレーターの仕事は、周囲の協力があってこそ
アメリカでは、展覧会の責任者であるキュレーターの名前がメディアでも大きく取り上げられる。着任して初めての展覧会を手掛けたときから、白原さんはそのことを強く実感した。
ある新聞のレビューに、「ユキコ・シラハラによるこの展覧会を前任者のウィリアム・ラスバンが見たら、きっと怒るに違いない」と書かれていたんです。アメリカではそのくらい、キュレーター個人の考えや個性が注目されるということなのでしょう。記事の内容には少し驚きましたが、「私は前任者にはできないことをしたんだ」と前向きに捉えました。
前任者のラスバンさんは、「過去のやり方は気にせず、君は君のやり方でやればいい」と言ってくれる人でした。余計な口出しをしたくないからと、私の在任中はコーヒー1杯すらご一緒してくれなかったんです。でも、私が退任する前に開かれた展覧会のパーティーでは、「お疲れさま」と祝杯を上げてくれました。着任してから7年目にやっと、初めて一緒にお酒を飲むことができた。あのときは、本当にうれしかったですね。
キュレーターの仕事は責任が大きい分、プレッシャーも大きいものです。でも、自分を信じて周囲に働きかけ、理解を得られれば、皆が一丸となってサポートしてくれます。費用を集める活動をしてくれたり、プログラムのアイデアを出してくれたり、人を紹介してくれたりするんです。自分がその陣頭指揮をとっていろいろな企画を実現できるのは、大きな醍醐味でした。
展示説明のバイリンガル化に苦心
2008年10月に帰国し、学生時代に学芸アシスタントを務めていた根津美術館に着任。当時、根津美術館では大規模な改築工事が行われており、翌年秋の新装オープンに向けた準備作業が進められていた。国際化に向けた取り組みの中で、白原さんが注力したのが、外国人来館者のための「展示説明のバイリンガル化」だ。
帰国した2008年の冬から、各国の大使館にクリスマス・カードをお送りする取り組みを始めました。館員の直筆サイン入りで、今後予定している展覧会の簡単な紹介も添えます。すると、大使館の方々が覚えていてくれて、母国から友人や公官の方々が来日した際に、根津美術館に案内してくださるんです。休日にファミリーでお越しくださる方もいます。外国人の来館者は新装オープン以降増え、今では全体の約10パーセントを占めるようになりました。
だからこそ、展示の説明書きはきちんとした英語にして出さなければなりません。この「きちんとした英語」というところが、意外と難しい。ただ日本語を英語に置き換えるのではなく、作品の魅力や見方をわかりやすく説明することが重要です。これは、英語と美術史の両方がわかる人でないとできない仕事。だから、自分が頑張ってみようと思いました。
日本や東洋美術には独特の技法や形式があり、これらを英語で正しく伝える作業には苦労します。例えば、一口に「本」と言っても、単純に book と訳せばいいというものではありません。「和綴本」であれば book bound in Japanese style、「画帖」であれば album と訳した方が、作品の概念がより伝わるでしょう。また、日本語は英語に比べてあいまいな言葉が多く、英語に訳そうとすると「これはどういう意味だろう」と疑問に思うことが少なくありません。その場合は執筆者である学芸員に真意を確認し、時には原文の日本語を書き直してもらうこともあります。こうした作業を、年7回の展覧会すべてについて行っています。時間と労力を要しますが、執筆者や翻訳者と話し合いを重ねる中でよりよい表現が生まれ、展示のクオリティも上がると信じています。
現在は、2014年秋に開催する特別展「名画を切り、名器を継ぐ」(会期:9月20日~11月3日)の準備を進めていますが、これも英訳に苦労している展覧会の一つです。巻物から掛け軸へ、画帖から巻物へというように、後に形式を変えた美術作品を取り上げるため、こうした変化を英語で正しく伝えたいと思っています。
美術を通して日本と海外をつなげる
白原さんは今、美術館の学芸員だけでなく、美術を通じて日本と海外をつなぐ仕事にも携わっている。研究者として日本・アジア美術の研究を進めるほか、慶應義塾大学では日本美術史を英語で教える講義を担当。また、複数の専門機関で委員を務め、日本と海外の美術をつなげる役割を担っている。
2011年からは、日本政府による「美術品補償制度」の専門調査会で委員を務めています。この制度は、日本での展覧会のために海外から作品を借りる際、作品に対する保険料を日本政府が国家として補償するというものです。専門委員の仕事は、美術品の輸送や展示の安全性を確認したり、このような制度が日本にあることを海外に向けて発信したりすること。日本で海外作品の展覧会をより開催しやすくするための仕事に携われることに、大きなやりがいを感じています。
国際間で展覧会を行う上では、考え方や制度が異なることも多く、相互理解のための対話が必要となります。例えば、欧米では、作品はケースの中の床にしっかりと固定されるべきだと考えられています。焼き物であれば、たとえ地震があっても絶対に作品が動かないように、作品の形に添ったプラスチックや金属製の「支え」を作ります。一方、日本では、むしろ焼き物が地震で動いても大丈夫なように、作品とケース内の床を細く柔らかいテグス糸でつなぎ止めます。これは、地震によって焼き物が硬いものにぶつかり、壊れたりしないようにという考え方によるものです。作品の展示法ひとつを取っても、こうした哲学の違いがあるのです。
このような違いを、どう相手に理解してもらうか。また、いかにして違いを尊重し合い、信頼関係を深めていけるかということが重要だと思います。単純に、どちらか一方が正しいというものではありません。その意味で、アメリカと日本の両方の美術館で働いた経験があり、双方の違いを理解していることが、どこかで役立つのではないかと思っています。私はハッキリものを言う性格なので、会議では「ああ、白原さん言っちゃった」と周囲をハラハラさせているかもしれませんが(笑)。
展覧会の企画運営をする、国際会議で発言する、美術の研究をして論文を書く、教師として学生に教える。それぞれ異なるスキルを必要とする仕事ですが、頭を切り替えて、一つ一つ誠実に取り組みたいと思っています。与えられた場で、自分の持てる力を最大限に出し切るのが私のやり方。充実した日々に感謝しつつ、これからも好奇心のアンテナを敏感にしながら、仕事に取り組みたいと思っています。
シアトルのお気に入りスポット
白原さんがシアトル在住時からお気に入りだった場所が、ベインブリッジ・アイランド。中でも広大な森林公園「ブローデル・リザーブ」の美しさは強く印象に残っているという。「つい最近、出張でシアトルを訪れた際にもベインブリッジ・アイランドを訪れる機会がありました。短時間でしたが、相変わらずゆったりとした島の様子や新しくできた美術館を見て、うれしくなりました」
取材・文・白原さん写真:いしもとあやこ
しらはら・ゆきこ/神奈川県出身。根津美術館学芸第一課長。幼少期から絵を描くことが好きで、美術に強い興味を抱く。高校卒業後は慶應義塾大学で日本美術史学を専攻。専門は日本仏教絵画史。同大学博士課程修了後、2000年10月よりイギリスのセインズベリー日本藝術研究所に訪問研究員として着任。2002年1月よりシアトル美術館東洋美術部に勤務し、日本・アジア美術の企画展や常設展の企画運営、収蔵品の修復プロジェクトなどを手がける。2008年10月より根津美術館に着任。ほかに慶應義塾大学国際センターで日本美術史を教え、文化庁美術品補償制度部会の専門委員を務めるなど、さまざまな立場で美術に関わっている。
【根津美術館公式サイト】 www.nezu-muse.or.jp