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「一つ一つの体験や、記憶に残ることを大切に」作曲家・陣内一真さん(じんのうち・かづま)

プラハにある Smecky Studio で行われたストリングス録音後にステージの指揮台で

2022年に公開され大ヒットした新海誠監督作品 『すずめの戸締まり』 の音楽を共同担当し、第46回日本アカデミー賞の優秀音楽賞を受賞した陣内一真(じんのうち・かづま) さん。広島で生まれ育ち、ワシントン州フェデラルウェイでの高校留学を経てバークリー音楽大学で学んだ陣内さんに、ゲームや映画、アニメ音楽の作曲家として活躍するようになるまでの経緯、お仕事に対する想い、大切にされていることなどについて聞きました。

【公式サイト】 www.kazumajinnouchi.com

なんとなく音に興味を抱いた子ども時代

音に興味を持ったのは、幼稚園の先生が弾くピアノを聴いた頃からだと思います。実際に楽器を始めたのは遅く、9歳の時にフルートを習い始めました。新聞の広告でフルートを見かけて、「この横笛が吹けたら楽しそうだな」と思ったのがきっかけです。

プロを目指したレッスンではなく、簡単な曲や楽しい曲が中心のレッスンでしたが、幼かったこともあり、練習が面倒な時もありました。でも、『ドラゴンボール』の主題歌などテレビなどで耳にした好きな曲を好きなキーで耳コピして吹いて遊んだりしていました。今はあまり練習していないので片言でしか吹けませんが、楽器の特性や音が体にしみついているので役に立っています。

良い先生たちとの出会い

生まれ育った広島で公立高校の国際科に入学したところ、主任の先生が外向的な方で、「行ける時に異文化を体験してきなさい」と言って、高校2年の冬休みに同級生約10人とシアトルの南のフェデラルウェイで2週間のホームステイをする機会をいただきました。それも主任の先生の個人的なつながりで、フェデラルウェイ高校で日本語を教えられていた日本人の先生が手配してくださり、ホストファミリーにお世話になったのです。

2週間後に日本に帰った時、主任の先生に「滞在中の様子を見ていたけど、陣内君なら高校にいる間に一年留学してもいいんじゃないか。英語も多少できるみたいだし」と言われました。どうしようか考えて両親に相談したら、「行ってきなさい」と後押ししてくれました。仲の良い同級生と卒業する機会を逃すので悩みましたが、高校で留学するのは高校の時しかできないことだと考えて、再びフェデラルウェイでホームステイしながら、高校に通い始めました。

留学当初は結構落ち込みました。それまで日本で受けた授業では英語はわりと得意な方でしたが、アメリカの現地校では一番できない生徒になってしまいますよね。「自分が他に何かできることはなかったかな」と考えた時、習っていたフルートが吹けますし、その一年半ぐらい前から趣味で作曲も始めていましたから、「英語以外で自分のできることは、音楽なのかもしれない」と思いました。

そして、フルートの担当で吹奏楽の授業を取ったところ、その先生がいい方でした。ミュージック・テックという授業で、コンピュータを使って作曲する方法を学ぶ課題があったのですが、「音楽理論も教えてあげるから、春学期は自分の授業を取らないか」と勧めてくださったのです。そこで初めて、人に教えてもらいながら作曲し、映像に音楽をつけることを体験しました。同じ頃、米国史のクラスで南北戦争についての授業を受け、ジェームズ・ホーナー(James Horner)が音楽を担当した映画『Glory』(1989年公開作品)を観たのです。彼が音楽を担当した『タイタニック』が公開されたばかりだったので、立て続けに彼の音楽に触れる機会があって、映画音楽に興味を持ち始めた時期でした。

高校留学が終わりに近づいた頃、「自分は楽器を始めたのも遅いし、クラシックの先生にもついていないので、日本で音楽大学に行くのは難しいだろう。でも、アメリカのどんな大学でもいいから、映画音楽を作るとか、コンピュータで音楽を作ることを勉強できる学校を知らないか」と、音楽の先生に相談しました。そして、その先生に勧められたバークリー音楽大学のサマースクールに参加し、凄腕のプレーヤーが集まっている場に刺激を受けて、「バークリー音楽大学で音楽を勉強してみたい」と思うようになったのです。僕は日本の高校を休学して留学していたので、アメリカにいる間にTOEFLを受けて入学に必要な点数を確保し、必要書類を一通り揃えてから再び日本に戻り、両親に承諾を得て、エッセイを書いて出願して、その年の10月ぐらいにバークリー音楽大学から合格通知をいただきました。日本の高校の先生や、フェデラルウェイ高校の先生など、僕の考えや行動に対してすごく前向きに見てくださった先生方に支えていただきました。

基礎の勉強に一番力を入れたバークリー音楽大学時代

バークリー音楽大学在学時に Professional Writing Department の Quincy Jones Scholarship Award を受賞した際のコンサートの様子

バークリー音楽大学に入った時は、音楽を作るといっても初級レベルでしか作れず、音楽を書くということを勉強しに行ったという段階でした。周りには「作曲を何年もやっています」「仕事もしています」という人たちがいたので、「とてもじゃないけど、かなわない。これはもう人生をかけて、ずっと勉強なんだろうな」と、察しました。時代とともに変わっていく音楽についていくために、大学の時に一番力を入れたのは、音楽理論の基礎、楽器の使い方の基礎といった、基礎の勉強です。どんなに音楽が変化してもついていけるよう、土台作りに一番力を入れました。

バークリーは商業音楽の第一線にいた方々を対象にした学校として始まったこともあり、すごく実用的なことを教えてくれるという印象があります。今では特別授業のゲストとしてお話しする機会があるのですが、いつ訪問してもその時代にあった音楽制作のスタイルやツールをすごく注意深く選んで採り入れていて、僕が卒業した学科も今では内容が全然違っています。ただ、できるだけ流行り廃りのないところを取り入れてあるので、かなり実用的な技術が卒業生に備わっているという印象です。日本でいうと、専門学校に近いところはあるかもしれません。

僕がいた当時は、とにかくひたすら曲を書く課題がありました。2週間に何回もプロジェクトの提出があり、物量がすごかった。また、音楽制作の全工程を学ぶので、作曲もそうですが、アレンジをして、譜面を作って、譜面のテーピングをした後に、学校内や近所の商用スタジオに持って行き、エンジニアさんとやり取りしながら録音を仕切って、プレーヤーも集めてと、全部やるんです。とにかく忙しかったですね。バークリーは横のつながりがすごくあるので、学校から数ブロックの中に100人以上知り合いがいるという状態でしたから、何か録音する時は「この人にギターを弾いてもらおう」と決めたら電話をかけて来てもらったり。学校以外のプロジェクトも一緒にやったりしましたが、それも次第に増えてきて本当に忙しかったです。

大学在学中の後半2年間お世話になった、カナダ出身のマイケル・ファーカソンという先生のことはよく覚えています。“Music is money.” とハッキリ言ってしまう、すごく現場主義の先生で(笑)。「お前たちは、ここで勉強して仕事をするようになるんだから、稼げるようになれ。お金になる音楽を作れるようになれ」と、口酸っぱく言われました。とても厳しくて、1分でも課題の提出が遅れると成績を下げるし、課題を落としてもテストの結果が悪くても、曲が悪くてもだめ。後から聞くと、当時は教え始めて2年目ぐらいだったそうですが、多分、許せなかったのだと思うんです、学生クオリティというものが。隅々まで制作工程を見て、ここが甘い、ここができていないと、徹底的に教えてくださいました。

コナミからマイクロソフト、そして独立

ロンドンにある Angel Studio にて20年来の仕事仲間の戸田信子氏と

バークリー音楽大学を卒業したのは2002年、コナミに入ったのは2006年です。当時社内に小島プロダクションという『メタルギアソリッド』シリーズを制作していた部署があって、そのサウンドチームに新人の作曲担当として採用していただきました。それまでの約4年間は、収入もギリギリの生活のなか、CMや企業ビデオ向けの音楽の作曲、東京のインディーアーティストのアルバムへの編曲、シンガーソングライターのバックバンドでのギター演奏をはじめ、譜面作成ソフトウェアのローカライズ・デバッグ・楽器店での販促業務など、音楽でできることは何でもやるという時代を過ごしました。

そして、2011年にレドモンドにあるマイクロソフトの社内スタジオに入社し、『Halo』シリーズの作曲を担当しました。先にマイクロソフトに転職されていたコナミ時代の上司、戸島壮太郎さんが声をかけてくださり、こちらに来る機会をいただいたのです。
フェデラルウェイの次はボストンに4年、そして日本に8年いたので、シアトルに来た時は「久しぶりに西海岸に来た」と感じました。ただ昔とかなり変わっていて、レンタカーでベルビューを通った時、1997年当時と違いすぎて、「間違ったところに来てしまった」と思ったものです(笑)。

でも、仕事でアメリカに来るのは初めてでしたし、当時はH1Bビザだったので、「これでクビになったら日本に帰国しなければいけないんだ。引っ越ししてくるのも大変だったし、それだけは避けなくては」という緊張感がありました。当時の『343 Industries』は、一年に100人以上を雇い、チームの規模が爆発的に大きくなっていました。毎週のように知らない人と会って挨拶して一緒に仕事をし、一年後にはゲームをリリースしていないといけないという状況で、チームダイナミクスがとにかく流動的。情報をキャッチし、必要な音楽を作って、必要な人に聴いてもらうというプロセスすべてが新しく、チャレンジでした。

その中で、国が違うと何となく音楽の聴こえ方というのが違うことに気づきました。ゲームの違いもありますし、大きな「これ」というものが一つあるわけではありませんが、本当に細かなニュアンスのちょっとした表現が、いろいろなところで違ってくることがあります。例えば、「力強さ」という表現でも、日本で仕事をしていた時代に自分が思っていたのと違うリアクションがアメリカでは返ってくる。大げさなたとえをすると、悲しいシーンで日本のドラマでよく聞かれるような「悲しく泣いてください」というようなメロディにすると、「メロドラマすぎる」「これはちょっと鼻につくんじゃない?」「もっと一歩引いて、言葉を一個一個かみしめていくような表現の方が良い」という感じでしょうか(笑)。

2018年6月でマイクロソフトを退社してフリーになったのは、もっと幅広く、いろいろな作品をやっていきたい、仕事の方向性をシフトしたいと思うようになったからです。「フリーになったよ」といろいろな人に声をかけると、「じゃあちょうど作曲家を探していたので手伝ってくれ」とか、「ハリウッドの作曲家のチームがサポートの作曲家を探しているから、紹介しておいたよ」とか、それまで培ってきた人脈で仕事が広がっていきました。Marvelの『Marvel’s Iron Man VR』に関しても、コナミ時代の同僚が自分のゲームスタジオをベルビューで立ち上げて、「僕の作品の音楽をやってくれないか」と声をかけてくれたからです。彼とは今でも一緒に仕事をしています。

同時にNetflixの『ULTRAMAN』がシリーズで走り始めていたのですが、バークリーで同級生だった戸田信子さんが声をかけてくれました。戸田さんは優秀な方で、卒業後すぐにコナミに入られて、僕が入社する前にコナミで一作品仕上げていました。コナミの『メタルギアソリッド』シリーズのチームに誘ってくれたのも戸田さんでした。ちょうど若手社員を募集されていたところに、当時25歳だった僕はまだ新卒みたいな年齢だからということもあって、声をかけていただきました。映像の音楽の付け方を教えてくだったのも戸田さんです。大学では映画音楽を勉強するまで至らなかったので、映像の音楽は仕事を通して勉強しました。戸田さんとは今でも一緒にプロジェクトをしています。

ゲーム音楽と映画音楽の制作

ロンドンにある Abbey Road Studios のスタジオ1で行われた Halo 5 Guardians のオーケストラ収録

ゲーム音楽の制作の手法はいろいろありますが、僕が考える効果的なスタートの仕方は、テーマを決めて、ゲームの色を決めていくことだと思います。例えばキャラクタ毎の楽器を決めて音楽のイメージを膨らませたり、シーンのタイプ毎に曲調を考えるなどのコンセプト出しから始めます。殺伐としているのか、壮大なのかとか、いろいろ方向性がありますよね。それを一度決めたうえで、ルール作りをしていくのです。使用する楽器、あえて使用しない楽器、ドラムでいうとマレットはこの種類を使う、加工されすぎた音にしない、とか。

ゲームができる前から関わる場合、コンセプトアーティストの方が「こんなイメージで」という制作の指針になるアートを最初に描かれます。光の感じだったり、環境の中にある建物の雰囲気だったり、主人公の生い立ちには悲しい過去がありますとか。大作だとそれで何カ月かかかるのですが、アートやストーリーのアウトライン見ながら曲想を固め始めて、少しずつプロトタイプのゲームができてきたら、技術寄りのテストをやっていきます。プレーした時の音楽のテンポを検証しながら、もともと打ち立てた音楽の構成をあてはめていき、シーン毎に作っていくという感じです。また、ゲーム制作は必ずしも最初から関わるわけではない場合もあって、制作の終盤で「音楽が足りないから助けてくれ」という場合もあります(笑)。

ゲーム音楽と映画音楽は、音符を並べるという意味では結構似たようなプロセスではありますが、一番の大きな違いは、時間軸の捉え方でしょうか。ゲームは一つのシチュエーションに1曲というようにつけていきます。例えば、プレーヤーが戦っている時は盛り上がる曲が鳴り、戦いが終わったら静かな曲に切り替わりますが、その切り替えのタイミングやポイントはプレーヤーによるわけなので、ゲーム音楽はそのプレーヤーのテンションを大枠で捉えて後ろから支えるという役割が大きいです。一方、映画は尺が決まっていますので、細かいところではフレーム単位での絵合わせが数秒の間に何度もあるシーンもありますし、ストーリーを伝える上で音楽は場面のもっと裏側にある意味をサポートする役割が大きいと思います。少しストロークの長い音楽で時間の流れを表現したり、シーンが切り替わっても同じ音楽でつないだりして関連性のない二つのシーンを関連付けて見せたり、演出方法の違いがありますね。

音楽を制作する時、特に最初はああでもない、こうでもないと、ずっとやっています。やっぱり第一印象が大事だと思うので、アイデアが出ない時は、寝たり、料理をしたり、とにかく音楽とは違うことをしますね。そうして、いったん作品から離れてから見直すと、「あ、ここはこういう意味なんじゃないか」と、新しい発見があったりします。また、脚本を読み返してみて、「この裏の意味を音楽で表現できたら面白いかな」とか。特に一晩寝て朝起きた時の印象は大きいですね。例えば、「夜書いたラブレターを、朝見たらちょっと恥ずかしい」というような感じに近いかもしれません(笑)。

僕の仕事は、制作環境にかなり影響を受けると思うので、プロジェクトに適した場所で作曲をできるようになるのが理想です。例えば、シアトルの雄大な自然を観ながら、攻殻機動隊のサイバーな世界の音楽を作るのは感覚的に結びつきませんでしたが、制作陣の都合もタイミング良く重なって、最後の方は東京のホテルに機材を持ち込んで作ったところ、しっくりくるなと思いました。

ただ、東京は僕にとっては忙しすぎる街なので、自分が作曲する時の気持ちを整えるには、シアトルの環境はちょうどいいと思っています。シアトルの冬の天気はあまり嫌いではありませんし、早く暗くなるのも好きです。夏は夏でもちろん気持ちがいいですしね。夏は制作の合間に近所のトレイルに行ってリフレッシュしたりします。空気がきれいなので、気持ちいいですよね。ちょっと表に出て深呼吸するだけでもリフレッシュできます。

でも、シアトルも変わってきました。ベルビューのダウンタウンもジェントリフィケーションされて、特徴がなくなってきています。出張でオハイオのクリーブランドに行った時も、ジェントリフィケーションされたエリアがベルビューのダウンタウンと変わらず、店も似たようなものが多く見られ、街のオリジナリティが失われるのはもったいないと思いました。

新海誠監督作品『すずめの戸締まり』の音楽を共同担当

すずめの戸締まり』の音楽に携わることになったのは、バークリーの同級生でジャズピアニスト・作曲家の上原ひろみさんが『Blue Giant』というコミック原作のアニメーション映画(2023年公開)の音楽を担当していた時、一曲手伝ってくれないかと声をかけてくれたことがきっかけです。その時に出会った『Blue Giant』の音楽プロデューサーが僕のウェブサイトで音源を聴いてくださり、知らないうちに新海誠監督のチームにプレゼンしてくださっていました。そして、2021年の12月にいきなり「新海組の新作のご相談です」というメールが来たのがきっかけです。

ご連絡いただいた時は、「新海さんの作品は、僕じゃないだろう」と思いました。僕がやってきた作品はSFアクションものが中心だったのに対して、新海さんの作品は思春期の心の動きを繊細に表現したものが多いし、ちょっと違うだろうなと。でも、これまでの作品とは違って、アクション要素もあり、劇場で映える音作りをしたいのでぜひと。いただいた企画書に目を通してから、こちらこそぜひお願いしますと答えました。

そこから、新海さんの手書きのイメージボードや、原画の方が描かれたキャラクターの設定画などを送っていただきました。新海さんはご自身で絵コンテにアニメーションをつけた上で、全キャラクターの仮の音声や、効果音、音楽をご自分で一度全編作られる方なんです。そうしてできたビデオコンテを2022年1月に送ってくださって、「こういう作品です」と説明してくださいました。もともとご自分でアニメーションを作られていたので、そのようなワークフローに慣れていらっしゃるのだと思います。作品を拝見して、初顔合わせのミーティングをオンラインで行い、制作の準備をして作曲を始めたのが2022年2月ぐらい。作品のイメージや編集はそこから大きく変わったことはありませんでした。

これまで新海監督の2作品の音楽を担当されているバンドのRADWIMPSさんがいて、そこに僕が入ったという形でした。このシーンは陣内、このシーンはRADWIMPSというように割り振って、8月末ぐらいまでそれぞれで制作し、シーンによってはRADWIMPSさんとアイデアのやり取りをしたり、アレンジなどでコラボしながら作ったり。その間もずっとデモを新海さんに送り続けて修正をして、8月末に全曲OKが出た後にレコーディングを行い、9月の頭に10日ぐらいかけてミックスを行いました。9月下旬からは効果音とセリフを混ぜるダビングという作業をして、そこで集まった制作陣と一緒に劇場と同じぐらいのサイズの部屋で何度も観賞し、音の総合演出の最終調整をして完成しました。

チャンスが巡ってきた時に “Yes” と言える準備を怠らない

東京の Sony Music 乃木坂で行われた金管アンサンブルのレコーディング

大学の母校で話をする時にも言うのですが、作る仕事は作品を通して自分の経験がにじみ出てくるものなので、いろいろな体験や記憶に残ることを、一つ一つ大事にするといいのではないかなと思います。

いろいろな場所の写真も参考資料として活用しますし、インターネットで見るのも一つの体験ですね。何が足りないというものでもなく、それぞれが一つの体験です。僕の場合、国際科の高校に行ったことも、未知の土地でさまざまな体験をしたことも大きいと思います。レコーディングとかでヨーロッパ方面にはよく行きますが、よく知らない国や違う文化で面白い体験をした時に、「もしずっと日本にいたら、自分ではこういう引き出しは生まれなかっただろうな」と思うことはあります。

特に僕の経験として生きているのは、音楽を続けていけるかわからなかった、卒業してから最初の3~4年のことです。大御所と呼ばれる大先生の作曲の凄さを目の当たりにしたり、スタジオで若造だと思われたり、悔しい思いをしたりしたこともありました。反対に、自分が感動したことは伝えたいと思いましたし、自分が理不尽に感じたことは他の誰かにしないように考えました。みなさんもそんな経験があると思いますが、経験を一つ一つ大切にしていくことが必要ではないかなと思います。

また、どんな仕事でもそうかもしれませんが、チャンスが巡ってきた時に「自分の準備が整ってないからできない」というのは極力減らした方がいい。制作環境一つとってもそうです。「現在、依頼を受けられる状態ではありません」と言って、他の人に仕事を持って行かれるということがないように、できる限りの準備をして、チャンスが巡ってきた時に “Yes” と言えるように、スキルアップして自分の制作環境を整えることが大事ですね。

そして、誰かに手を差し伸べてもらったら、何かをちゃんと返していけるようすることも大切だと思います。それぞれ自分なりの返し方があると思うのですが、僕の場合は作曲を通して作品に寄り添い、できるだけ高いクオリティのものを作るということ、自分にしか出せないアイデアを入れていくことで返していくことを心がけています。

陣内一真さん(じんのうち・かづま)略歴
1979年、広島県生まれ。高校留学を経て、バークリー音楽大学に入学。2002年に卒業し、4年後の2006年に株式会社コナミデジタルエンタテインメントに入社して数々のゲーム音楽の作曲に携わる。2011年にワシントン州レドモンド市にあるマイクロソフト343 Industriesに入社し、『Halo』シリーズの作曲を担当。『Halo 5: Guardians』で2016年に英国アカデミー賞(BAFTA)ゲーム部門の音楽賞にノミネート。2018年6月にフリーとなり、2019年にMarvel作品のゲーム『Marvel’s Iron Man VR』、作曲家・戸田信子と共同でNetflixの『ULTRAMAN』シリーズ、『攻殻機動隊SAC_2045』シリーズ、Disney+の『Star Wars Visions: The Ninth Jedi』の音楽を手掛ける。2022年公開の新海誠監督作品『すずめの戸締まり』の音楽を RADWIMPS と担当し、日本アカデミー賞の優秀音楽賞を受賞。

聞き手:オオノタクミ 写真提供:陣内一真

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