1980年代からシアトルで日本食、日本でアメリカ料理のレストランの立ち上げと経営に関わってきた高橋進さん。77歳の時にアメリカで日本食以外の店をやることにチャンレジしたくなり、パイオニア・スクエアに 『84 Yesler』 をオープンしました。しかし、その1年後の2020年3月、パンデミックで一時休業を余儀なくされるという想定外の事態に陥ります。それを機に、「今まで私がやってきたことの集大成となるように」と、コンセプトを変え、新しいエグゼクティブ・シェフとともに再出発したのは、その年の夏でした。「その時、その時のいい波を探し、乗り切るサーフィンの技術だけは磨いておくことが肝心」という高橋さんに、これまでの経験と、仕事をする上で大切にしていることなどについて伺いました。
英語に興味を持った高校時代
私の人生そのものが行き当たりばったり。今はアメリカのレストラン『84 Yesler』をシアトルのパイオニア・スクエアでやっていますが、私の人生がこういう形になるとは、まったく想像もしていませんでした。
英語に興味を持ったのは、高校時代です。大阪外国語大学を卒業した英語の先生が校内にEnglish Club を作り、英語で演劇をやったり、京都のYMCAの弁論大会に出たり、クラブ活動に積極的に参加しました。
京都外国語大学に進学してからは、JTB 京都支社で外国人旅行者の英語ガイドをやったり、松下幸之助さんが陣頭指揮をされていた頃の松下電器産業(現:パナソニック株式会社)の大阪府門真(かどま)市の本店で社員の方々に英語を教えたりしていました。当時の松下電器は東南アジアに進出して冷蔵庫や洗濯機などの白物家電やアイロンなどを製造する工場を建てていたので、日本から現地に行って指導する社員が英語を必要としていたのです。
商社の海外事業本部へ
京都外国語大学を卒業後、型にはまったところで働きたくなかったので、安宅産業(現・伊藤忠商事)に就職しました。その後、まだ独身だった1970年~1973年にシアトルで骨董店の仕事に携わりましたが、安宅産業に復職し、海外開発事業本部でいろいろなことを経験させてもらいました。シャンゼリゼのそばにあったパリ支店で働いた時は、朝はフランス語の勉強、昼からは支店で仕事をし、夜はお客さんの案内でさまざまな高級レストランで食事をする機会があって、その時にだいぶんフランス料理を勉強したんですよ。
当時、妻の姉夫婦もパリに住んでいましたので、ブルゴーニュやボルドーなどのワインの産地などをフランス人の義兄と旅したり、フランス人の家族の料理や家事の仕方から合理的な考えを学んだり、家族の一員としてフランスを見ることができて本当に良かったと思っています。個人主義と言われるフランス人ですが、家族の中に入るととても親密なんですね。細かいことまで心配してくれました。
シアトル地域で飲食業界へ
1977年に安宅産業が伊藤忠商事に吸収合併されることになり、人生の大きな転機が訪れました。大阪や兵庫などでファミリー・レストランをチェーン展開していた義兄が、海外進出のサポートをしてくれと、誘ってくれたのです。
一緒にカナダのバンクーバーからカリフォルニア州のサンディエゴまで視察して回り、一番気に入ったシアトルに出店することを決めました。というのも、私は1970年~1973年にシアトルで骨董店の仕事に携わっていたので、まだ戦前に日本から移住したいわゆる日系一世の方々がたくさんいらっしゃり、人脈があったのが良かったのです。
そして、シアトル地域でもベルビューが気に入ったということで、宇和島屋(編集部注:日系スーパーマーケット)の最初のベルビュー店の向かいにあった土地を購入し、日系人の家族企業に工事をお願いし、寿司と鉄板焼きの高級店『Kamon of Kobe』を開店しました。1982年のことです。
その後、レイク・ユニオンに『Kamon of Kobe』の2号店の土地を確保し、義兄はレイク・ベルビューにあったアメリカ料理の店や鉄板焼きの高級チェーン『Benihana』を買収し、数年で多店舗を展開する規模に成長させました。でも、1990年に日本のバブルがはじけてしまったことで、海外店は閉鎖になってしまったのです。
そこで、私は自分でベルビューとレドモンドの境に開店したカジュアルな日本食のレストラン『Bento Box』だけに集中することにしました。『Kamon of Kobe』は有名人やお金持ちが来るような高級店で、普通の人が食べに来るような店ではなかったので、カジュアルな店でもっといろんな人に食べてもらい、和食のすそ野を広げたかったのです。
思った通り、『Bento Box』には宅急便の運転手や郵便局員や警察官が食べに来てくれました。シアトルで初めてラーメンを出したのですが、日系企業の社員の方々やそのご家族も食べに来てくれたものです。
ファイナンスとレストランのコンサルタント業へ
そんなある日、閉店した『Kamon of Kobe』のジェネラル・マネジャーをしながらコンサルタント業もしていたアメリカ人が、「富裕層を対象にしたアメリカにしかない金融商品を扱う企業があるのだが、日本とビジネスをやりたいので働いてくれないか」と声をかけてくれました。
それからファイナンシャル・コンサルタントとして働き始めたのですが、同時にレストランビジネスのコンサルタント業もすることなりました。シアトル地域で『Daniel’s』や『Chandler’s』などを展開しているシュワルツ・ブラザーズ社から「日本企業の東急がChandler’sに興味があるそうだ。手伝ってくれないか」と声をかけてくれたからです。東急は「バンクーバー、サンフランシスコ、ボストンなどの店を見たが、シアトルのレイク・ユニオンにあるChandler’sを一番気に入った」とのことでした。
シュワルツ・ブラザーズの経営者ジョン・シュワルツさんにお会いし、事業化の可能性を調査してプレゼンをしたら、とても気に入ってくれましてね。それから、シュワルツ・ブラザーズのアドバイザーとして、横浜のみなとみらい21にチャンドラーズ・ヨコハマを開店するプロジェクトに始まり、チャンドラーズ・クラブハウス東京店(チャンドラーズ・アメリカン・グリル東京ベイ店)の開店などに携わりました。
金融の仕事もレストランのコンサルタント業も、国内外の出張がとても多かったのですが、15年にわたって二足の草鞋でやりました。でも、2008年のリーマンショックで金融関係が大きな打撃を受け、金融商品の会社から「あなたの年齢からして、最初に辞めてくれないだろうか。あなたが働き続けたら、他の人も辞めなくなるから」と言われたのです。当時、私は68歳でしたから、それもそうだと納得して、翌年の2009年に引退しました。
いったん引退するも、再び飲食業界へ
そんなふうに引退したものの、これから自分はいったい何をするべきかと考えた時、ソニーの創業者の一人でもある盛田昭夫さんがおっしゃっていた “Think global, act local”(グローバルに考えて、ローカルに行動する)という企業理念について改めて考えました。
そして、「そうだ、これからは地元で何かやろう」と決めました。ベルビューのシニア・センターで皿洗いなどのボランティアをしたり、モンタナの温泉の湯の華で美容石鹸を作って近所のバザーで売ったり寄付をしたり、それまで出張が多くて参加しづらかった京都人会やオーナー会など地域の集まりに入ったりと、地元での活動を増やしていったのです。
ところが、2014年になって、シアトルで江戸前寿司を初めて出した加柴司郎さん(編集部注:1966年に渡米し、全米に知られる寿司職人)から連絡がありました。司郎さんはその年に惜しまれながら引退したのですが、やっぱりもう一度やってほしいという声が大きかったので新しい店を開店することになり、「いい場所が見つかったから、一緒にやらないか」と、声をかけてくださったのです。
そして、7人で会社を作り、シアトルで有名なパイク・プレース・マーケットに『Sushi Kashiba』を開店したのが2015年。司郎さんは映画『Jiro Dreams of Sushi』で脚光を浴びた小野二郎さんと日本で一緒に働いていたこともあり、寿司職人として50年以上やってきていますから、「江戸前寿司の Shiro」としても知られていて、すぐにものすごく繁盛するようになりました。
でも、そのうち、司郎さんが立っているカウンターの席にすわりたいというお客さんの行列があまりにも長くなって、なかなか座れない状態になってしまいました。そこで、やはり「司郎スタンダード」を作らないとだめだと話し合いました。司郎さんの前に座れなくても、同じものが出てくる、寿司バーだけでなくテーブルでも同じものが出てくるように。そうして、何時間も待っていただかなくてもいいようになって、売り上げも伸びましたし、もっといろいろなお客さんに楽しんでもらえるようになりました。
ソニーの創業者の一人でもある盛田昭夫さんがモンタナ州のモンタナ大学で講義をされた時の言葉がずっと頭にあったのです。東南アジアの工場でトランジスタラジオやウォークマンを作って販売していたことについて、アメリカ人の学生さんが言いました。「ソニーの商品を買う時は、日本製かどうか確認して買います。別の国で作られていたら買いません」。すると、盛田さんはその学生さんに「性能に関しては、東京でも別の国でも何ら変わりません。それを SONY Standard と言います」と答えたんですね。
人生最後の挑戦 イタリア料理店を新たに開店
そんなふうにして『Sushi Kashiba』の開店に携わりましたが、その後、サイレント・パートナーに変わりました。なぜかと言うと、新しい夢ができて、今はそちらに集中しているからです。
その夢というのは、今、シアトルのパイオニア・スクエアで経営しているレストラン『84 Yesler』。アメリカで日本食以外の店をやることにチャンレジしたくなって、人生最後の賭けに出ました。
成功するかどうかなんて、誰もわかりません。でも、「そういう夢を実現するためには、他の人を巻き添えにしたらだめだ、自分の責任でやりたい。人に頼ってはいけない」と思い、妻の勝子に相談しました。「『Sushi Kashiba』に迷惑をかけないようにサイレント・パートナーになって、すべての資産を新しい店につぎ込んでもいいか」と。そしたら、妻は「やったらいい」と言ってくれたのです。
でも、2017年当時のシアトルは建築ブームの真っ最中。2014年に取った『Sushi Kashiba』の見積もりの倍はかかることがわかりました。相談した弁護士さんも「今やめるなら、リスクは少なくて済みますよ」と。でも、10年のリース契約をし、『Sushi Kashiba』と同じ建築会社と契約もしていたので、身を引くのはちょっとどうかなと考えていたら、妻が「もともと自分の考えでやりたいと言ってたんだから、やったらいい」と背中を押してくれたのです。そして、妻のこの言葉が決定打になりました。「早くやらないと死んじゃうよ」。こうして、迷いは消えました。
弁護士さんは、「失敗したらどうしますか。持ち家もなくなりますよ」と妻に言いましたが、妻は「その時は、いい夢を見させてもらったと、笑って済ませます」と答えたんですね。僕も77歳になっていましたが、せっかく妻がそう言ってくれるならと、開店を決心しました。弁護士さんは立ち上がって握手してくれ、「私も全力で応援します」と言ってくれました。そして、ジェームズ・ビアード賞を受賞してヨーロッパでも評価が高かった地元のシェフと組んで、2019年にイタリア料理の高級レストラン『Bisato』をパイオニア・スクエアに開店しました。
でも、それから一年後の2020年3月、新型コロナウイルスのパンデミック宣言が出され、ワシントン州でもレストランはすべて店内で飲食する形での営業ができなくなりました。シェフはその前月に辞めていました。
コンセプトを変更し、『84 Yesler』へ
苦難や苦労、困難が起きるたび、僕自身の勉強になり、強くなったと思っています。でも、パンデミックは私も初めての経験でしたし、いろいろ考えた末、店を再開できるなら、今まで私がやってきたことの集大成となるようにコンセプトを変えることにしました。
以前はリッチな暮らしを目標にしていたのが、パンデミックで考え方が変わった人も多いと思います。料理をまったく作らなかった男性が YouTube でフレンチオニオンスープとかチキンのおいしい焼き方とかを見て、「自分もやってみよう」とスーパーマーケットに行くようになりました。「これは楽しい、人生これもいい」と感じたら、レストランにあまり足を運ばなくなります。
そこで、雰囲気もサービスもよくて、家では簡単に作れないものを食べられて、アニバーサリーとか誕生日とか特別な時に行きたい、または友達とワインを飲みながらワイワイガヤガヤできる、『84 Yesler』はそんな場所として選んでもらえるようにしようと。レストランの最終的な目標は、お客さんが楽しんで、価値を感じてもらうこと。ロンドンやパリやニューヨークなどで一度しか行ったことがなくても、今も覚えているレストランがあります。そういうレストランになりたい。
そこで、それまでスーシェフを務めてくれていたヨーロッパでの経験が豊富なアメリカ人シェフのクリスティーナ・シーゲルをエグゼクティブシェフに昇格させて、カジュアルな一品や、リーズナブルでおなか一杯になるパスタも含めるなど、メニューも大幅に変更しました。京都ではないですが、料理も伝統と革新を常に追いかけていかないと、歴史ある店はできません。2年や3年では何事も達成できないのです。
ずっとやりたかったことを形に
私がずっとやりたかったことの一つは、Food Without Borders です。世界各地の有名シェフが日本に勉強しに行ったりしていますし、フランス料理でも日本のだしやワサビ、醤油だとかを隠し味に使っていたりするでしょう?ですから、『84 Yesler』では、「これは何料理です」という、はっきりした線引きはしません。Doctors Without Borders(国境なき医師団)の考えが好きですから、それに倣って、Food Without Borders と言っています。
二つ目にやりたかったことは、Service Without Walls です。『84 Yesler』には、キッチンがあり、バーがあり、リビングルームのようなダイニングルームがありますが、店内に壁がありません。料理をするストーブは壁の前ではなく、キッチンのアイランドにあります。盛り付けるカウンターも、お客さんがすわるところに面しています。これは、キッチンがやっていることをサービスのスタッフもお客さんも見られるようにするためです。また、お茶で一座建立と言いますが、店とお客様が一体となって楽しいひと時を過ごしてほしいと思いました。
3つ目は、Community です。『84 Yesler』のあるパイオニア・スクエアというと、以前から治安が悪いというイメージがあります。ベルビューに住んでいる人などは、なかなか来ません。でも、1970年代には危ないと言われていた1st Avenue にあるパイク・プレース・マーケットは、今では世界中の人が来てにぎわっています。街は変わることができるんです。
パイク・プレース・マーケットの南にファイナンシャル・ディストリクトがあって、そのすぐ南がパイオニア・スクエアです。ここがにぎわうには、誰かが飛び込んでいかないといけない。そして成功したら、いいレストランが入ってくるし、人が集まってくる。パイオニア・スクエアがパリのカルチェ・ラタンのようになったら、その次はパイオニア・スクエアの隣にあるインターナショナル・ディストリクト。横浜の中華街のような街になれば、シアトルの中心部全体がすごく良くなる。でも、言ってるだけではなく、自分が一歩を踏み出さないといけない、そう思って飛び込みました。
ほとんどの人が、パイオニア・スクエアに店を出すことに反対しましたよ。そしてその一年後にパンデミックです。本来なら店じまいして、倒産してるでしょうが、PPPローン(米国の救済ローン)のおかげで持ちこたえています。それは、スタッフのみんなが「『84 Yesler』を成功させたい」という共通の目標を持ってがんばってくれているからです。
ここで言う成功とは、あの場所で、お客さんが喜んでくれて、リーズナブルな利益が出るお店になることです。そうでないとスタッフも続きませんし、受け継いでくれないでしょう。
仕事を通して伝えたいこと
現場に行っていないと感じられないことがある:1980年代に『Bento Box』を開店した当時から変わらないのは、私はずっと現場にいるということ。『84 Yesler』はパンデミックの影響でまだ週4日のみの営業ですが、現場に行っていないと感じられないことがあるからなのです。まず、開店前に店に着き、周りの1ブロックを掃除します。オーナーでそんなことをしている人はいないと評判になったのですが、これは自分自身の気持ちを整理して、身を清めるというような効果があります。
そして、入口のドアのところに立って、来店するお客さんに挨拶し、帰られるお客さんにはお食事はどうだったかと尋ねて、ジェネラルマネジャーやシェフとのミーティングで共有します。”work backwards” を仕事のモットーにしています。
仲良くやっていかないと意味がない:トヨタやホンダが使っている「KAIZEN」(改善)という方法がありますが、私の店では「KAIZEN: Free Talk Meeting」といって、自由に意見を言い合うミーティングも月に一回やっています。参加するかどうかは従業員が自分で決めるのですが、ミーティングの時間も有給にしてあるので、従業員16人全員が参加して、いろいろな意見を出してくれます。料理やサービス、キッチンの担当者はそれぞれいろいろな意見を持っていますから、お互いの立場を尊重しながら、何か問題があれば一緒に考えて解決しようという考えなんです。これまでたくさんのレストランを見てきましたが、キッチンとサービスのスタッフがお互いにあまりコミュニケーションをしていなかったり対立したりしているようでは、おいしい料理ができるわけがありません。遅かれ早かれみんな死ぬんだから、仲良くやっていかないと意味がないんです。
“Like what you do”:よく、”Do what you like”(好きなことをやりなさい)と言いますが、「自分が何を好きかわからない」「何が自分に向いているかわからない」という人もいます。そういう時は、”Like what you do”(やっていることを好きになりなさい) と言います。これは自分が好きなことではないと思っても、始めてみて、辛抱してやってみないとわからないことがあるからです。石の上にも3年と言いますが、それは、3年やっているとプロ意識が出てきて、やっていることがわかってきて、そこから将来が決められるからなんですね。
“人を信用する”:「人を信用したらダメだ」という人と、「人を信用しないとダメだ」という人がいますが、私は「人を信用しないと、お店もやっていけないし、ビジネスもできない」と思っています。裏切られたこともありますが、それは自分のトレーニングというか、自分の訓練が足らず、人を見る目がなかったからで、それには授業料を払わないといけないと思っています。
“仕事も人生もハーモニー(調和)とバランス”:仕事も人生もハーモニー(調和)とバランスと思っています。それは自分自身、修業して会得しないといけません。逆境に遭遇したら良薬だと信じ、感謝しないといけません。苦しくてもあきらめなければ、道は見つかります。
“結果ではなく、プロセス”:大きな山を越えたと思ったら、また次の山が来る。私も何回も登ったり下りたりしてきましたが、失敗した事業もありますし、方向を誤ったこともあります。相撲で言えば、今は7勝7敗。でも、8勝7敗で人生を終わりたい。先のことを不安に思っても仕方がない。一日一生と言いますが、そういうつもりで生きています。「結果ではなく、プロセスだ」と、自分自身を納得させるために。
こういうことを言ってくれる経営者に出会ったことがなかったらしく、スタッフは結構みんな聞いてくれます。アメリカ人はこういうことに興味を持てないと思っていましたが、日本人と同じで、若い人はいろいろ悩んでいるんですね。禅僧から学んだことですが、「気は長く、心は丸く、腹立てず、人を大きく、己は小さく」というのもアメリカ人のスタッフに言いますが、ちゃんと理解してもらえています。
これから景気が良くなったらすごく助かりますが、この先どうなるかは誰にも正確にはわかりません。次々と予期してないことが世の中に起こってきます。今、オフィスに仕事に来る人があまり増えていないので、以前は一日3万人が来ていたパイオニア・スクエアも、今はまだ一日1万5000人ぐらいです。今年になって隣にオランダ発のブティックホテル『CitizenM』がオープンしたので少しにぎやかになってきましたが、やはり観光客、クルーズシップの乗客、出張で来る人がもっと増える必要があります。
でも、店の名前『84 Yesler』にちなんで、私が84歳になった時には店がきちんとうまく行っているようにと考えています。もうすぐ81歳なので、あと3年です。
最近思うことは、「人生は P&L(損益計算書)ではなく、浪花節である」ということです。行き当たりばったり、出たとこ勝負でもいい。人生、そんなに計算通りに行かないし、行ったらおもしろくないかも。
高橋進(たかはし・すすむ)略歴
略歴:1941年、奈良県に生まれる。高校時代に英語に興味を持ち、京都外国語大学英米語学部で学ぶ。安宅産業(現・伊藤忠商事)の海外開発事業本部でさまざまなプロジェクトに携わり、1977年の伊藤忠商事による吸収合併を機に、義兄が経営する会社に入社し、飲食業界へ。1982年にシアトルの東にあるベルビューで鉄板焼きと寿司の高級レストラン『Kamon of Kobe』を開店して繁盛するが、1990年のバブル崩壊で海外部門が縮小され閉店。その後、15年にわたりアメリカの金融商品を販売するファイナンシャル・コンサルタントとして働きながら、レストランビジネスのコンサルタントとしても働く。2008年のリーマンショックを機にファイナンシャル・コンサルタントの仕事を退き、地元ベルビューでボランティアなどをしていたが、2015年にパートナーの一人として加柴司郎さんらと『Sushi Kashiba』を開店。その後、妻の勝子さんと2020年にパイオニア・スクエアに『84 Yesler』(旧『Bisato』)を開店し、現在に至る。
聞き手:オオノタクミ