第2次世界大戦前の1907年に四国から移民し、クボタ・ガーデニング・カンパニーを起業した造園家・窪田藤太郎氏がシアトルに開いた日本庭園 『窪田ガーデン』。開園当時の5エーカー(6,120坪)から20エーカー(約2万4,500坪)に拡張され、1987年からシアトル市が所有し管理しているこの歴史的建造物に本格的な石垣が完成したのは2015年。そのプロジェクトを発案し、完成まで携わった彫刻家・児嶋健太郎さんの実録エッセイ。
石工たちの夜
「カイル、お前酔っ払ってるから運転しちゃダメ。」
カイルは文句ありげに顔を上げると、
「エェー・・・オォー・・・だってブツブツブツ(文句を言っている)。じゃあ、トラック行ってくる」
「運転しちゃダメだよ」
「帰ってくるって」
そう言うと、彼は重そうなブーツをドカドカと鳴らしながらフラフラと家を出て、自分のトラックの方に行ってしまった。
しばらくして帰ってくると、手に大きな鉄のランチボックスみたいのものを持ってきた。それを家の裏庭のデッキのテーブルにドンと置いた。
「何これ、カイル?」
と聞くと、
「強いやつ、淹れるんだ」
と、フラフラとバーナーだのカップだのを取り出し始めた。見ているといい香りがしてきて、彼はさっさと手際よくエスプレッソを何杯も淹れ始めた。
明日も石垣を作る作業がある、夜中の12時過ぎである。
僕の周りにいた石工たちも「おお、ありがたい」とか言いながら集まってきて、エスプレッソの小さなカップから美味しそうに一気飲みした。
カイルも2杯くらい飲むと、幸せそうな表情になるのだった。
あんたら、やっぱどっかおかしいよ。
「じゃあ、がんばってください。僕は寝ます。おやすみ」
僕は呆れたまま寝室に引っ込んだ。
そもそもの始まり
日本全国各地の城の石垣を築いた「穴太積み」(あのうづみ)の技術を世界に伝える粟田建設の粟田純司会長と粟田純徳社長に出会ったのは2010年の春。
ベンチュラという、ロサンゼルスから1時間半くらい南にある海岸沿いの町で開催されていた小さな石垣を作るワークショップに参加した時だった。
ところがこのワークショップのオーガナイザーの爺様がとても頼りのない人で、日本から粟田建設などを招くだけ招いて自分はさっさと傍観を決め込んだ。通訳も、ガイドも、運転手も、オーガナイザーも誰もいなくてもどこ吹く風で、「ああ、それは大変だ」とまったく他人事かのように構えている。そこで、日本語が話せる僕がなんとなくそうしたことをすべてやることになってしまったのである。
しかし、これは予想外にも、僕にとってかけがえのない経験になった。
粟田建設の社長たちの日本語による説明を訳し、いろいろ話しているうちに、この人たちはすごい人たちだということがわかったのだ。粟田家の13代目の粟田万喜三氏は大津市無形文化財に指定され黄綬褒章・吉川英治文化賞を受賞、14代目の粟田純司会長も名工卓越技能章・黄綬褒章を受賞した方だ。ただ者ではない家系なのである。
石垣の作業を手伝いながら、「これはシアトルでもやらなきゃ」と思いつき、シアトルに帰ってきた後もずっとそのことを考えていた。
どこか石垣を建てさせてくれるような所はないだろうか?資金はどうする?ワークショップの形は?人数は?
問題はいろいろあった。
唯一問題でなかったのは、石だった。僕が石屋で働いているから、という理由だけで。
とにかく動いてみないことにはどうにもならない。とりあえず、片っ端からあたってみることにした。日系企業は良さそうに見えてなかなか難しかった。と言うのも、例えば一つの会社の敷地内に石垣を建ててしまったら、完成した後にそれが私物になってしまい、僕のやろうとしていることの精神と食い違ってしまうことになる。それと、もし、資金源が一つや二つと少なかったら、なんとなくそのお金を用意してくれた人、または組織なり団体なりに依存する形になってしまう可能性があり、これもまた困る。
そんなわけで、その年の冬には行き詰ってしまった。
そこに現れたのがドン・ブルックス。シアトル南部にある窪田ガーデンの庭師長の彼が、ある暇な土曜日に僕が働いている会社にやって来た(それも待ち合わせの時間つぶしに)。いろいろ話しているうちに、ドンが
「そういえば、この前、西海岸のどこかで日本の職人さんを招いて石垣を作ったやつらがいるのをインターネットで読んだよ。かなり前の話だったっけな」
と言うので、僕は自分の撮ったワークショップの写真を彼に見せた。
彼は、
「おお、これこれ、これ。いいよなー。」
と言った後、まさに運命の一言を発した。
「これ、こんなのが窪田ガーデンでできたらいいだろうなー」
これだ!
窪田ガーデンで石垣を作ろう!
そう決めた。
筆者プロフィール:児嶋 健太郎
彫刻家。グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社に就職。2005年、シアトルのマレナコス社に転職し、石を扱うさまざまな仕事を手がけている。2006年のインタビューはこちら。