第2次世界大戦前の1907年に四国から移民し、クボタ・ガーデニング・カンパニーを起業した造園家・窪田藤太郎氏がシアトルに開いた日本庭園 『窪田ガーデン』。開園当時の5エーカー(6,120坪)から20エーカー(約2万4,500坪)に拡張され、1987年からシアトル市が所有し管理しているこの歴史的建造物に本格的な石垣が完成したのは2015年。そのプロジェクトを発案し、完成まで携わった彫刻家・児嶋健太郎さんの実録エッセイ。
料理は交代で
さて、料理である。
社長に僕の料理の不安を伝えると、「そんなのまったく心配ない。皆で料理すればいい。」と言ってくれた。
それだ。皆に交代で料理させよう。連帯責任にしよう!
そこでみんなにそのことを伝えると、快く引き受けてくれた。
最初の数日はばたばたしていたのでなんとなく目玉焼き、ベーコン、トーストですませた。その後、一番最初に朝食の担当になったのはジョナサンだった。ジョナサンはノースカロライナの石工で、頭を剃った、筋骨隆々のギリシャ彫刻をほうふつとさせる青年だった。なにかいろいろ考えるのが好きな人で、すぐ「哲学者石工」のあだ名がついた。(後でこれをひねって噴き出したくなるような他のあだ名がつくのだが、それはまた後ほど。)
朝起きて、ダイニングに行くと、社長と僕しかテーブルに来なかった。ジョナサンはスキレットに入っている半分こげた巨大なソーセージをフォークで刺すと、デンとお皿に乗せてくれるのであった。社長のお皿にも、デン。それで、「あれ、ジョナサンは?」と聞くと、「あ、俺、朝食食べないんだ」、とのことだった。
しかし、いつまでたっても、他に何も出てこないので、「あれ、ジョナサン、これだけ?」ときくと、「お、ああ、ほいきた。」と言ってもう一つ大きなソーセージをお皿に乗っけてくれるのである。社長と僕以外誰も朝食を食べないので、これは、どうも、朝食の担当制度は上手くいかないらしかった。
そんな訳で、朝食のみは僕が毎日作った。と言っても、ご飯と味噌汁、魚(レトルトか焼き魚)、漬物、と夕食の残り、だけだった。それも、毎日、毎日。社長もよく我慢してくれたものである。
昼食はジョイがいろいろ手配してくれた。近所のレストランから寄付してもらったり、ボランティアの人に作ってもらったり。毎日変化があって楽しかった。何回か日系ハワイアンの方達が作ってくれたのだが、スパムむすび、というものが出てきたときには驚いた。(スパムとは缶詰の肉で香料が入っており、アメリカ本土ではよっぽどのことがないと(自然災害でそれ以外食べるものがないとか)食べない不思議な食品である。しかし、ハワイでは一般的に食べられるもので、レストランのメニューに載っていたりする。)なかなか美味しかった。
しかし、昼食といい、二回の休憩といい、その度に食べ物、お菓子、さまざまなジュースとスポーツドリンク、フルーツなどがテントの下にズラッと並べられていて、なんだか重役扱い。それを汗と埃にまみれた野郎達がドカドカきて手づかみに食べていく違和感。
朝、現場に着くと、ジョナサンとカリフォルニアからの石工たちはだいたい大きなコーヒーのカップを持って待っていた。「朝食は?」聞くと、彼らは指にタバコを挟んだ手でコーヒーカップを持ち上げると「カフェインとニコチンさ」と言うのであった。あきれてしまった。
能ある鷹は爪を隠す
マットは体の大きいスーパー石工であった。大きいと言っても太いのではなく、細く、高いのである。それでいて信じられないような強さで石を叩くのであった。彼が石を叩く度に破裂するように飛んでいく石片はすごい勢いで遠くまで飛ぶので、彼がその度に石片が飛んでいく方向に誰もいないのを確認するようになるまで、危ないといったらなかった。
しかし、彼の鑿の音は力強く、澄んでいて、聞いていて気持ち良くなってくるほどだった。まず足から力をため、それを上体に移して、またためて、そしてそのためたエネルギーを腕を通して拡大加速してからぶったたくのである。道理でいちいちのスイングに半獣的な力が入るわけだ。
マットは、この体全体で打つ方法を毎回するのだが、リズムをとって、ダンスをしているかのようにも見えた。彼とカイルはカリフォルニアのワークショップで純徳社長に会って、ずっと連絡を取り合っていた。社長をすごく尊敬し、いつも穴が開くほどよく観察していた。いつも自分の持っているすべてを使おうとし、いつもどう役に立てるか先を読もうとしているようだった。それもあって、社長に信頼されていた。だから、石の形作りや角石(読んで文字のとおり石垣の角にくる石。構造上要になる大切な石)は任されていた。
夕食の担当が僕に回ってきたとき、僕は迷わずカレーを作った。簡単で、おいしくて、アメリカ人は食べたことがない、という三拍子がそろっていた。社長も毎日変わったものばかり食べていたので、楽しみにしていた。もちろん、パック一つ、十人前作った。やはりマットとジョナサンとケビンに受けた。マットは大盛り二皿食べて、満足そうだった。僕も社長もケビンも大盛り一皿で満足。唯一人、おかわりを二回してそれでも黙々と食べていたのがジョナサンだった。彼は大盛り三皿目を平らげると周りを見回した。そして「あの、もう一皿いいかな?」と聞くのである。「スゲー、まだ食べるんだ!いいよ、ジョナサン、皆食べ終わったから好きなだけ食べて」と僕が言うと、ジョナサンは嬉しそうに笑って、「ああ、ありがとう、じゃあ。」と言って残っていたカレーとご飯をすべて平らげてしまった。まだまだ鍋には半分くらいルーが残っていたのに、お米も2~3合は残っていたのに、信じられなかった。朝食べないで、昼はイワシ(後で説明する)で、夜は大食い競争にでも出れるんじゃないかと思うほどの大食漢。
粟田建設の経理をされている路子さんにも、夕食担当をお願いした。しかし、自分はあまり料理は得意でないと、ちょっとはっきりしない返事だったので、作ってくれるのだろうかと
少し不安だった。
しかし、当日になると、出てきたのはものすごいご馳走だった。サラダから、魚から、肉から、フルコースディナー。これで料理が得意でない?そんなのだったら、僕のカレーはどうなるのか、ご馳走を頬張りながら考えた。すごく美味しかった。
ある夕方、皆で家に帰ってきて外のデッキで休んでビールを飲んでいると、マットのもう一つの隠れた一面を発見した。台所から、トトトトトト、シャーッ、トトトトトト、シャーッ、っという聞きなれない音がした。のぞいてみると、マットがパスタ用の野菜を切っている音だった。手馴れたものであった。感心していると、マットはけだるそうにそれをスキレットに移してサッサと料理し始めた。その様子がどうも適当にやっているようにしか見えず、ちょっと戸惑った。半端なく手馴れているのは伺えたが、なんだか気負っていないというか面倒そうなのだ。それでいて料理が嫌そうでもなかった。その上、マットは料理の最中に外に出てきてタバコを吸ったりビール飲んだり話したりしていく。
みんなでワイワイ話していて、「そういえば夕食は?」と思い出すと、マットは「できてるよ」とケロッとして言うのである。さっきからずっと皆とすわっていたのにできているとは、と、首をかしげながらダイニングエリアに行くと、あった。ハッと、息をのむように美味しいプッタネスカのパスタ。色鮮やかなサラダ、パン、それに、赤ワイン。一口食べて、その美味しさに、みんなで顔を見合わせてしまった。お世辞ではなく本当に美味しい。あんな不真面目そうに適当に作っていたのに。
当のマットは、落ち着きはらって、まだまだたくさん作ってあるから、とすましていた。とりあえずサラダを食べ(これも凝りに凝った、ナッツとかいろいろ入ったサラダ。ドレッシングまで自分で作った)、ガーリックバターつきのパンをほおばって、パスタを平らげた。マットは、オリーブオイルのもっといいのがあったらもっと美味しいんだけど、とか、パルミジャーノもどうだのとか言っていたが、皆食べるのに忙しくて聞いている様子ではなかった。
「ああ、俺、石工になる前はサンフランの大きなホテルの三ツ星レストランでシェフしてたんだ。」
これも、ケロッとした顔で言うのであった。
「毎日何百皿も料理してたな。」
美味しいはずである。
何人分作ったのか知らないが、本当にたくさん作ってあった。(ジョナサンですら半分くらいしかたいらげることができなかった。)このパスタは癖がなく、この後人が沢山うちに集まった時や、朝食の時に、非常に役に立った。流石、プロ。
筆者プロフィール:児嶋 健太郎
彫刻家。グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社に就職。2005年、シアトルのマレナコス社に転職し、石を扱うさまざまな仕事を手がけている。2006年のインタビューはこちら。