島津修平さん(しまづ・しゅうへい) 略歴:
中学校を卒業後、料理の道へ。銀座の老舗で修行を始め、さまざまな店で経験を積む。40代になり、独立考えていた矢先、カリフォルニア州ナパ・バレーにあるワイナリーのオーナー夫妻とのご縁から、2016年にナパのダウンタウンに開店したレストランへ。ミシュランの星を獲得するという目標を果たした2年後、シアトルの東のベルビュー市にある『アイラブ寿司 オン・レイク・ベルビュー』へ。現在はジェネラル・マネジャー&ヘッド寿司シェフとして勤務している。
【公式サイト】 ilovesushi.com
中学卒業後、銀座の老舗で寿司職人の道へ
父は転勤が多かったので、私は小学校6年間の間に6~7回も転校しました。両親はエレクトーン、オルガン、そろばん、水泳など、いろいろな習い事をさせてくれましたが、見えないストレスがあって小学校の半ばから親に反抗し、相当苦労をかけたと思います。その中でもずっと続けていたサッカーは、そんな私を支えてくれたものの一つでした。
早くに祖父が亡くなったため、祖母はとても苦労して私の父を含め三人の子どもを育てあげたのですが、大学に行かせる余裕はなく、父は高校卒業後に就職しました。65歳で定年退職するまで勤め上げましたが、学歴のことでしんどい思いをしたこともあったのでしょう、勉強にも厳しく、私は塾に通わせてもらっていました。でも、サッカーに熱中して成績が下がってしまうと、「それならサッカーをやめさせるぞ」と言われ、一生懸命に勉強してまた成績を上げたものの、「早く家を出たい」という気持ちが強くなりました。
父は団塊の世代ですから、私の世代は子どもがたくさんいる時代でしたが、中学校を出てすぐに就職する人はほとんどいませんでした。でも、学校にあった就職案内を親に内緒でこっそり見てみると、たまたま一ページ目に銀座の寿司屋さんがありました。「寿司か。いいな。毎日食べられのかな。寮もあるし、給料ももらえる。じゃあ、いいかな」と(笑)。それだけで親に聞かずに履歴書を書いて送ろうと思ったら、未成年者の就職には保護者の承認が必要だったのです。
父は反対しましたが、その銀座の寿司屋さんまで私と一緒に行き、人事担当の方にお会いしました。すると、その方は私が書いた履歴書を見る前に、父が名刺を出した途端、「いつもお世話になっております」となってしまったんですよ(苦笑)。父の勤務先は東京の大手町で、大きな会社ですから、知られています。なので、担当者の方は僕を見ずに、父を見ながら、入社式はいついつで、こういう流れになりますと、説明してくださっていましたね。
「大変な世界に飛び込んでしまった」 覚悟を決めるまで2年
寿司職人の世界は、最初はあらゆる雑用から始まります。朝は始発で出勤し、支度して、朝の8時半にみんなでまかないを食べる。今なら賄いは昼前に一度でしょうが、当時は朝昼晩を一緒に食べていました。2年目に包丁を持たせてもらいましたが、最初はアジの頭を落とすだけです。寿司飯を作るのは3年目ぐらいから。バブルのはじけた直後の1990年代の初期だったので、先輩方は「暇になった」と言われていましたが、私は朝から晩まで走り回っていました。
当時の月給は4万7千円。3万円を財形貯蓄にまわして、寮に住み、三食をまかないで食べ、残りの1万7千円がお小遣いという状態でした。辛くてやめたいと思うことは毎日ありましたよ。でも、両親には「辛くて帰ってきました」とは絶対に言いたくなかったので、その仕事に向いてる、向いてないではなく、とにかく続けることを考えていました。
あれは、この世界に入って2年目ぐらいの時のことです。オフィス街は仕事納めは横並びで、その日は1日で1300人前ぐらいの寿司の注文をさばかないといけませんでした。前の日も泊まり込みで、店の営業を終えてから準備を始めます。当時の私はまだ「小僧」だったので、出前の時間が始まったら、出前に行って、帰って来て、また出前に行っての繰り返し。自転車で運べる量もあれば、台車で運ぶ量のものもありました。台車で運ぶとなると、金額にして15~16万円分の寿司桶ですから、それなりの量です。
そんなたくさんの寿司を一人で台車で運んでいた時、大手町の交差点で滑車が溝にはまってひっくり返りました。寒いし、眠いし、気持ちも集中してなかったのでしょう。そして、落ちた寿司を拾い、店には怖い先輩方が待っているし、お客さんも待っているし、自分は殺されるのではないかと思いながら店に戻ったところ、すごく厳しかった先輩方が、「間に合わせるために、やりなおすぞ!お前はそれまで違うことやってろ!」と。語気は荒かったですが、私は「あれ、いつもの感じだと、けちょんけちょんに言われるのに、なんか違うな」と。それまで殴られたり、蹴飛ばされたりしたことは一度もありませんでしたが、その時はそのぐらいやられることを覚悟していたのに、なんとか配達の時間にちょっと遅れるぐらいで間に合わせてもらいました。
それから1~2週間ほどたったころ、一緒に寮生活していた先輩が、「あんなにしやがって」と、その時のことを言われたんですね。「本当に申し訳ありませんでした」と言ったところ、その先輩はこう言ったのです。「厳しい仕事だけど、お前が普段がんばってる姿を見てるから。今、厳しい思いをしておかないと、年を取ってから同じ思いをしても挽回できない。やっぱり、いい店にいたっていうことは、そういうことだよ。だからお前も先輩になった時、厳しいだけでなく、ゆるすという気持ちも持ちながら仕事をしろよ」。それでとても感動して、この世界でがんばって、親に認めてもらって、独立して、自分の握ったお寿司を食べてもらえるようにしよう、と決心しました。
スキルを得るために店を移る
最初の店で4年間にわたり修業した後、その店の先輩が独立して新宿に開店したカウンター席13席の小さい店に移りました。その先輩は今でもとてもがんばってらっしゃる方なのですが、食事と楽しむお酒、お客さん目線になることなど、いろいろなことを学ばせてくれました。「お客さんが何を欲しいと思っているか。こちらがおいしいからと出すだけだったら、ただ単に自己満足だ。相手のための仕事をしなさい」と言われたことを、よく覚えています。
そして、青山のふぐ専門店などでも働いた後、独立する前に寿司屋さんの感覚を取り戻したくて、世田谷にある店に移りました。店を移る時は、自分が得たいスキルが得られること、給料は絶対に下げないことというポリシーで選んできましたが、世田谷の店では給料を落としてでも学びたい「経営者の考え方」を学ばせてもらえました。例えば、社長に「10万円で好きなものを買っていいぞ」と言われ、築地に行くわけです。買うだけなら簡単。でも、いい物、そうでない物、今日の物、昨日の物を見極めて、築地の人たちとの人間関係を構築することが必要です。そして、買ったら、売らなければなりません。「お前の後ろには若い衆の生活がかかってるんだから、買ったら、しっかり仕込んでお金に変えなさい」という社長の考えで、人のお金で経営の実践に近いシミュレーションをさせてもらうことができました。
まったく考えていなかった渡米 ナパでミシュランの星を取る
その世田谷の店で4~5年働き、年齢も40歳ぐらいになったので、体力的にも経験的にも独立のタイミングかなと思っていたところ、カリフォルニア州のナパに行く話が舞い込んできたのです。
これまで香港や台湾、その他の東南アジア諸国などの仕事のことや、「現地に行ってみたら、聞いていた話と違う」という失敗談も耳にしたりしましたが、自分には関係ない話だと思っていました。でも、当時のお店にご来店くださったナパ・バレーにあるワイナリーのオーナー夫妻とのご縁から、これから開店する店で働くことになったのです。「ナパはええとこやぞ」と。オーナーの方に直接そう言っていただけて、独立したら二度とこういう話はないなと。「ミシュランの星を取りに行く」という店でもあったので、チャレンジすることを決めました。2016年のことです。
オーナーからのリクエストは、「日本でやっていたものを、そのままやってほしい」ということでした。「こちらに迎合したものは、よその店がやっている。日本人が来店しても、ここは日本じゃないかと錯覚するようなことをしてほしい」と。
とはいえ、ナパでは日本に食材を発注するにも、どれだけお客さんが来るかわからない2週間前に発注しないといけませんでした。毎日築地に行くわけではありませんし、日本のように市場がそこら中にあるわけでもない。そして、サンフランシスコ空港に到着しても、ナパに届くのは翌日で、使い物にならない状態になってしまっているものがある。ナパはサンフランシスコまで片道1時間~1時間半かかりますので、返品もできない。アメリカで和食文化を広めてきた先輩方はもっと苦労されてきたわけですが、これは思ったより大変だと、実感しましたね。
料理自体はおひとり様225ドルの安くないコース料理を、寿司といえばロールやサーモン、養殖のハマチを食べるぐらいのお客さん方にどこまで喜んでもらえているのかがわからず、開店当時は手探りの状態でした。でも、来店される方はそれなりの方が多く、日本の文化を多少経験したことがある方々なりに理解したうえで喜んでくださっていたと思います。おかげさまで、開店から1年以内にミシュランの星を獲得することができました。
日本帰国の計画を変更 アイラブ寿司 オン・レイク・ベルビューへ
ナパでの目標を達成した後、アメリカ国内に残ることは考えておらず、日本に帰国することを考えていました。そんな時、この『アイラブ寿司・オン・レイク・ベルビュー』の経営者となったばかりの川崎オーナーから連絡を受けたのです。
話をちょっと聞いてみようかと思って会ってみると、物腰柔らかく丁寧で、私より少し年上の兄貴分のような人物。「100年企業を目指したい」と話してくれた時は、飲食店でそういう考え方は聞いたことがなかったので、驚きました。
考えてみると、ミシュランの星を取ったレストランという高級店とは違い、それなりの値段はするものの、わりとファミリースタイルなこの店で働くことは、自分の中でも新たな焦点でした。そして、アメリカに来て、ナパという小さな地域ではありましたが、高級店で日本の食文化を伝える仕事の一端を担ったわけですし、次はこういう店に挑戦して、日本に帰る前にもうちょっとアメリカを見るのもいいかなと。そして、こちらに移ることを決めたのが、2018年の夏でした。
いい時に、いい状態で、次の世代にバトンを渡す
サンフランシスコとシータック(シアトル・タコマ国際空港)だと、東京から送って来るフライト時間はあまり変わらないと思うのですが、サンフランシスコに着いても、ナパ・バレーに来るのは翌日というようなタイムラグがありました。でも、シータックに着いたら、サプライチェーンの店を経由し、その日に店に届きます。
ここで働き始めたばかりの頃、日本人ではない女性が一人でふらっと食べに来て、熱燗を飲みながら、サーモンの刺身を食べて、コハダやアジなどの光り物を食べて、小一時間で帰っていったことがあり、衝撃を受けました。この『アイラブ寿司・オン・レイク・ベルビュー』は寿司レストランが珍しかった1986年から営業している店ですが、シアトル、ベルビューの地域は、日本の食文化がそんなに根付いているのかと思ったものです。
それもこれも、全米の先輩たちが、今よりももっと大変な苦労があった時代から続けてきてくださり、お客さんたちもサプライチェーンも含めて育ててくださったから。そのおかげで、今ここで働いている私たちの手元に、欲しいクオリティの魚が届くようになったわけです。先輩たちに感謝しつつ、いい時に後輩たちにバトンを渡せるよう、ここで勤めたいと思っています。
川崎オーナーも「最後までへばりつい取ったら、あかんぞ」という考えをしています。へばりついて、最後の最後までやってしまうと、誰も受け継げなくなってしまう、と。「いい時に、いい状態で、自分もまだ余力のある状態の時に、バトンを渡さなあかん」と話してくれたことで、その気持ちで仕事をするようになりました。
もう3年を過ぎましたが、川崎オーナーはまず、人の話を聴いて、自分の考えと違っていても聴いて、飲み込んで、その場で言い返したり、こうだよああだよと言うのではなくて、時間を置いて結論を出して、というスタイル。それをこの3年間、うちの会社の誰よりもそばで見てきて、多くを学んでいますが、まだまだ自分の未熟さに凹んでいます。なので、彼が必要としてくれている間は、彼の思いも叶えるために、一緒に仕事をしていきたい。僕の人生のプランニングが変わってしまいましたね(笑)。
そういう意味で、今回のパンデミックは、営業の規制や条件が変わり続ける中、雇用の維持や経営について、いろいろ考え、学ばせてもらった大事な時間です。昨年は余裕がなくなり、トップダウンで進めることが多くなりました。でも、「赤字になるのは覚悟しているので、開け続けて、最低限の雇用を守って、お客さんにも喜んでもらえることを考えなさい」と川崎オーナーが言ってくれたおかげで、店内での営業を再開した時の下地作りとして、テイクアウトの認知度を高める工夫をして来ました。それがいい結果に結びつき、お客様にもスタッフにも、そして妻にも、とても感謝しています。
今は重圧からも少し開放されて、何をやるべきなのか、それをやるには何をすればいいのか、やれない理由は何なのかと、みんなに問うようにシフトしています。やはり100年企業を目標にするのであれば、お客さんの満足度が高いレストランというだけではだめですね。お客さんの満足度も高めつつ、会社の利益を守りつつ、スタッフがこの会社に長くいたいと思える環境をどのように作っていく。いい状態でバトンを渡すためにも、今はこの3つを考えながら、仕事をしています。そうすることで、僕がああしろこうしろと言うのではなくて、みんなからの意見がもっと増えてくると嬉しいですね。
職人は、日本の文化を伝える大切なメッセンジャー
飲食店の世界は、人の出入りもよくありますが、きちんとした職人は日本の文化を伝える大切なメッセンジャーだと思っています。大変な思いをすることもありますが、喜びもダイレクトに伝わってくる仕事です。お客さんが「また来たよ」と来店してくださったら、「前回の我々の仕事を喜んで、また来てくださったんだ」と思えます。
コンサートとかでもそうですが、どれだけお客さんにいい時間だったと思ってもらえるかです。おいしいもの、型にはまったサービスだけをしていればいいのではなく、あくまでもライブなのです。そのために何をするのか、何を尽くすべきなのか。察知する力も高めて、チームとして高みを目指していければと思っています。こうしたことを言葉だけで伝えるのはとても難しいので、経験のある仲間を増やしていきたい。今、弊社には、職人、サーバー、オフィスなどに10人以上の日本人スタッフがおりますが、それでも足りません。
私が職人として物事を吸収し続けることも大切ですが、後輩たちに伝えていかないといけない年齢になりました。俺が、俺がでは、もういけない。次の世代ができるように伝えていく。それが、私の今後の課題であり、こちらにいる意味と意義ではないかと思っています。