「ある程度、自分の将来やりたいことが決まった。でも、それを専門職として仕事にしていきたいのかわからない」と悩んでいる人や、「いったん就職はしたものの、これが本当に自分のやりたいことなのか」と疑問に感じている人、他にやりたいことがあるけれどもふんぎりがつかない、転職を考えている、という人は必読です。
日本人留学生によるレポートです!
【主なトピック】
前回に引き続き、紆余曲折の中、たくさんの経験を積みながら自分のやりたいことを見つめ続け、得意スキルを伸ばし、ついに自分のやりたいことに近づいた戸島壮太郎さんに、自分の特技を仕事にしていく心構えや方法などについてお話を伺いました。
日本語メディア初公開!Xbox 用ゲーム、Halo を手掛ける343 Industries の新オフィス!
- 迷った時は、自分のやりたいことを基準に再確認しよう
- アメリカで働くなら、英語以外の特技も磨こう
- 就職して3年待ってから、仕事で自分を表現しよう
- 退路を断つことで道は開ける
戸島壮太郎さんってどんな人?
アメリカで爆発的な人気を誇る、Microsoft の Xbox 用ビデオゲーム、Halo の開発スタジオである343 Industries に所属するオーディオ・ディレクター(音響監督)。
学生時代はプロのバンドマンを目指すも、限界を感じ、就職活動を始める。日本の大学を卒業後、住宅総合メーカーに就職。しかし、自分のやりたいこと、音楽に関わる仕事に就くことを諦めきれず、半年で退社。働きながら夜間専門学校に2年間通い、苦手だったコンピュータ音響について学習。卒業後、見事、希望のゲーム音響の仕事に就き、日本でコナミホールディングス社が発売したステルスゲーム『メタルギア・ソリッド4』を音響監督として指揮した後、渡米。343 Industries に入り、Halo 4およびHalo 5の音響監督を担当した。現在も次作に向け、「世界一の、心に響く音」を目指し挑戦し続けている。
経歴:
追手門学院大学、心理学科卒業。大和ハウス工業株式会社に半年間勤務した後、2年間にわたり夜間の専門学校で学ぶ。卒業後、T&E SOFT に入社。2年後にコナミホールディングス、さらに2年後にはグループ内の小島プロダクションに移る。33歳の時、『メタルギア・ソリッド4』 の音響監督に抜擢され、作品発売後、世界で挑戦するためシアトルへ。現在は Microsoft のゲーム、Halo を制作する343 Industries に所属し、オーディオ・ディレクター(音響監督)として活躍中。
迷った時は、自分のやりたいことを基準に再確認しよう
-学生時代はバンド活動に熱中されていたとのことですが、なぜ日本で就職活動を始めたのですか?新卒として入社してから、どのようにして、音楽に携わる今の仕事に就いたのですか?
中学時代に夢中になったミュージシャン達の自由でかっこいい生き方に影響を受けたのがきっかけで、高校から大学にかけて真剣にプロを目指して音楽活動をしていました。「自分も彼らのようにカッコよく生きたい」「音楽でどこまでいけるのかを試したい」という気持ちでした。でも、夢は遠く、大学3年生になった時、もうプロのミュージシャンを目指すのは時間切れだと感じて就職活動を始めることにしたのです。大好きな音楽に携わりたくて、レコード会社やゲーム会社の作曲職などにもエントリーしてもすべて不合格。そんな中、手を差し伸べてくれた住宅メーカーに就職を決めました。
決心はしたつもりでしたが、働いてみて初めて、「素晴らしい音楽を作り、そこに生きがいを見出す」という、これまでの人生観から離れて生きることが自分にとっていかに違和感のあることなのかを実感しました。そこで、申し訳なく思いながらも、わずか半年間で退社を決めてしまいました。
そこからすぐに夜間の専門学校でコンピュータによる音響制作を学び始めました。というのも、就職活動でゲーム会社に受からなかったのは、コンピュータ関連の知識不足が原因だったと感じていたからです。そこを克服すればチャンスがつかめると思い、もう後がなかったこともあって、必死になって勉強しました。
専門学校を卒業した後、無事、ゲームメーカーからいくつか内定を得ることができ、その中で比較的小規模のゲームメーカーに入社を決めました。
-なぜ、小規模の企業に入社することを選んだのですか?
小さい組織で大きな歯車になりたかったからです。大手からも内定をいただきましたが、T&Eソフトというゲーム会社の面接で、開発室長から直接、「新人ではあるが、看板作品の音響監督としてスタートしてほしい」というオファーをいただきました。自分を必要としてくれているこの人たちと一緒に、精いっぱいやってみたいと思い、迷いなく決めました。
大手の場合、新卒採用時には担当する作品はまだ決まっていないことが多く、仕事のイメージがわきにくかったんです。初出勤するまで、自分が格闘ゲームの音楽を作るのか、それとも恋愛ゲームを担当するのかすらわからなかったりしましたね。
T&Eソフトでの仕事は楽しく、とてもやりがいを感じていましたが、会社が経営に苦しみ、2年後には開発室が閉鎖に追い込まれてしまいました。
ならば今度は「大きいところで挑戦してみよう」と思い、コナミホールディングスへ、そして小島プロダクションへと移りました。そして、「世界に挑戦してみたい」と思い、現在の343 Industriesにたどり着きました。
-なぜ日本の企業を辞めてシアトルへ来られたのですか?渡米した経緯を詳しく教えてください。
日本で働いていた時は、忙しすぎて生活が破綻しかけていました。音響監督をやらせていただき、仕事の責任が重くなっていくにつれて、その負担を軽くする方法が見出せなくなり、家族や健康を大いに犠牲にしていました。
仕事に関しても、自分のゴールを見失いかけているのを感じていました。ディレクターとしての経験が浅かったんでしょうね。そういった状況に、まだうまく対処できなかったんです。なので、「メタルギア・ソリッド4が完成したら、いったん辞めて考えよう」と決めました。実際、ゲームが出た後、先のことが決まっていないまま辞表を提出しました。私はチームリーダーだったので、1年半かけてしっかりと引き継ぐように言われました。
その間、引き継ぎを進めながら、「自分の何が破綻していたのか?」「家族に対して、もっと何ができる?」「恵まれた仕事なのに、何かモヤモヤしているのはなぜだろう?」など、自分の人生についていろいろ考えました。
小島プロダクションでは、世界的に有名なゲーム監督である小島秀夫監督から音響に関してかなり明確な指示がもらえました。ですから私の主な役割は「自分を表現する」というよりは、「彼のビジョンを高いレベルで実現する」ことでした。仕事に充実感がありましたし、多くのことを学び、たくさんの経験もさせていただきました。一方で、「自分自身が考える最高の音響表現をしてみたい」「自分はまだそれに挑戦していない」という思いに至りました。
そんな時、アメリカで Halo の監督を手がけることになったアメリカ人の元同僚から、数年前に「Halo の音響監督に興味はないか?」と誘いを受けていたことを思い出しました。僕は Halo の世界観が大好きでしたし、その友人をとても信頼していたので、かなり魅力的なお話だったはずです。しかし当時の私は、プロジェクトの真っ最中。「今はメタルギア・ソリッド4のことしか考えられないから」と、すぐに断っていました。
そのことを思い出した私は彼に連絡し、「まだ音響監督を探してる?挑戦してもいい?」と訊いたところ「モチロン!」という返事をもらいました。「343 Industries に来て、タジーン(戸島さん)が作りたい音を精一杯表現してほしい」と言われ、「これだ!」と思ったのです。
当時はまったく英語が話せなかったのですが、彼の通訳を交えての面接・プレゼンテーションをなんとか通過し、入社に至りました。専門職とはいえ面接で通訳をつけるのはかなりの特例です。恥ずかしい話ですが、正直、彼のサポートがなければ合格できていなかったと思います。現在は、アメリカに来て8年目になりました。
-戸島さんの仕事内容を教えてください。
役職はオーディオディレクターです。日本語だと、音響監督と呼ばれます。大作ゲームの制作は3年くらいかけて行う大がかりな作業です。音響面でもたくさんの音楽や効果音、音声、プログラムなどが必要になってきます。私の役割は社内外合わせて数十名にもなるプロフェッショナル達の力を借りて、必要な音の素材を揃え、ゲームの興奮や感動をそれらの音で演出する仕事です。才能と情熱に溢れたメンバーの力を借りながら、自分が頭で描いた音響を形にしていく作業はとてもエキサイティングで、本当にやりがいを感じています。
自分の特技を磨こう
-英語の勉強と仕事のスキルアップのバランス、力量はどのようにとっていますか?
アメリカに来た当初は本当に追い込まれました。英語が話せなかった私は、「行けば何とかなるやろ」という勢いと情熱だけで来てしまいましたが、実際は何ともなりませんでした(笑)。
当初は、オフィスで交わされた全ての会話を録音して聴きこんだり、恥を承知でWebトランスレーターを通して会話をしたりもしましたが、とても仕事にはなりませんでした。あせった私は、仕事は朝の9時から夕方5時までと決め、それ以外の時間を英語の猛勉強に費やしました。でも、一向に向上しているとは感じられませんでした。誰もが楽しそうに英語を使いこなしているシアトルの街で、自分だけがスーパーの店員さんとの会話にすら四苦八苦しているように感じ、みじめでした。「人との会話すらもできずに、何が世界一の音響作りや・・・」と、完全に自信を失う中、いろんな人に励まされて、何とか乗り切る毎日でした。
しかし、そんなふうに1年以上にわたり追い込まれた末、当たり前のこと、つまり、「自分は音を作りに来たんだ!」ということを思い出したのです。「英語をいくら勉強したって、ネイティブに追いつけるはずはない。英語を期待されて来たんじゃない!そんなことより、これまで支えてくれたチームメンバーのために、ファンのために、とにかくいい音を作らなきゃ」そう思ったのです。当初、「3年でスラスラ喋れるようになる」と設定した目標をやめて、「絶対にHaloの音を、チームやファンが誇りに思える音にする」という目標に切り替えたのです。
そのことに気づいてからは、英語の机勉強は一切やめて、かつてのように、自分のすべての時間を良い音響、音楽のために使うようにしました。すると音に対するアイデア、情熱がどんどん戻って来て、そして「早くみんなにこのアイデアを伝えなきゃ」と思うようになりました。
そうなるともう語順や文法など気にしている暇はありません。単語を並べただけの格好悪い英語で、身振り手振りで、必死に伝えるようになったのです。情熱とはっきりとした伝えたいポイントがあれば、私の下手な英語でも通じました。それからというもの、英語の勉強時間はほとんどなくなり、そのかわりにチームメンバーに英語で話しかける頻度が一気に増えました。そして数年が経ち、気がつけば、なんとか仕事になるくらいの英語力はついていました。今でも英語は下手ですが、仕事において英語が原因で憂鬱になることはなくなりました。
-英語力にとらわれない働き方の場合、アメリカで働くには他に何が重要になりますか?
日本人がアメリカで働く時、英語力は武器にはなりませんよね。こちらではみんな英語を話せますから。それよりも、アメリカの会社からオファーを受けた時点で、「英語以外の何か」を期待されているはずです。それが何であるかを自分で理解し、軸にすることが大切だと思います。当たり前の話ですが、私は追い込まれるあまり、長いことそれを見失っていましたので。
-日本とアメリカでお仕事をされたことのある戸島さんから見た、日本とアメリカの企業の違いは何ですか?
アメリカの会社の社員は個人事業主という感覚に近いと感じます。こちらでは会社と社員は対等な関係です。お互いにリスペクトされるように努力をするし、嫌になればいつでも関係を切ることができる。社員は会社やチームに貢献しようと努力をしますが、会社もまた社員に「いつまでも働きたい」と思ってもらえるように環境作りの努力をしてくれますね。
価値観の多様性もリスペクトしてくれます。時間の使い方、働き方に関して多種多様、みんなとても自由ですね。そのかわり「貢献できそうにない」「ビジョンが共有できない」と判断されると、ポジションを失うリスクも高いように感じます。私は343 Industries での経験からしか語れませんが、「シンプルに結果で評価されたい」という人は、アメリカの会社の方がストレートな結果を出しやすいかもしれません。
日本の会社はもっと一枚岩でしたね。個々の考えよりも、会社の考え方に理解や共有を求められることも多かったですが、それゆえチームにはまとまりが出やすく、一つのゴールに向かいやすい、といった優れた点もあったと思います。私はアメリカの職場が気に入っていますが、「あぁ、日本の会社なら、これはもっと上手くやるのになぁ」と思うこともありますね。
「とにかくいい音を作って、たくさんの人に楽しんでもらいたい!」
-たくさんの人に影響を与える立場の戸島さんにとって、ユーザーにどのようなことを伝えたいですか?
私自身は、音楽から強い影響を受けて育ちました。「カッコよく生きたい、優しく、強く生きたい」と思うようになったのも、今の自分があるのも、すばらしい音楽に出会ったおかげだと思っています。我々の世代には、音楽や映画、小説から学び育ったという人がたくさんいます。しかし、若い世代を見ると、「ゲームに影響を受けて育った」という人がたくさん出てきているんですよ。ゲームが文化として、若者の心に大きな影響を与えうるメディアなのであれば、私たちは子供たちの未来を形成する上で、大きな責任を負っていると思うんです。
Halo は、ヒット作の場合ですと、世界で1,000万人を超える人がプレーします。1,000万もの人が、仲間や家族と最高に楽しい時間を過ごすのか、震えるような感動や優しさや勇気を体験するのか、それとも記憶にすら残らないありふれた経験をするのか、はたまた残酷な行為を楽しむような体験をしてしまうのか。
私たちが作る作品によって、少しだけかもしれないけれど、「世界は変わる。良くもなるし、悪くもなる。」そう思っています。私にも子供がいます。彼らの未来のためにも、「ワクワクするような冒険体験、そして優しくて強いヒーローの素晴らしさが伝わるような、心に残る作品を世界に届けて、彼らの明るい未来に少しでも貢献できれば…」そういう気持ちで働いています!
自分の強みは自分で把握しつつ、3年間は上司のために働け!
-たくさん転職を経験している戸島さんにとって、環境が変わった時に、見失ってはいけないポイントはありますか?
これも過去の失敗から学んだことなのですが、たとえクリエイターであっても、環境が変わったら3年間は、自分よりも、まず上司のビジョンを優先するように意識しています。
-日本には「石の上にも三年」ということわざがあるように、この3年間は学びの時間でもあるわけですね。
そうですね、会社やチームが目指している方向を学ぶのに時間は必要です。また、上司やチーム第一で努力をして、いったん「こいつは信用できる仲間だ!」と認めてもらえたら、今度は上司の方から表現する機会を与えてくれる。自分を思いっきり表現するのはそれからでいいと思います。私が新人の頃、上司の信頼を得る前に盛大に自己表現をすることで何度か大きな失敗をしましたので(笑)、その後はこのルールを肝に銘じています。
退路を断って、世界一を目指そう
-私もそうなのですが、ある程度、自分の将来やりたいことが決まってきていても、それを専門職として仕事にしていくかどうか悩んでいる学生に、一言お願いします。
そうですね、心の中で「実はやりたいこと」が見えている人、「踏み出したいけど勇気がない」という人は、まず退路を断ってみるのもいいかもしれません。そうすると、「夢に向かってやるしかない」と思うようになれます。真剣になれます。スタート地点に立てます。
私は人生で2回、みずから退路を断ちました。一回目は住宅会社を辞めて専門学校へ入学した時、二回目は退職してアメリカへ来た時です。実は私は、けっこう臆病なところがあって、心にモヤモヤがあってもなかなか決断できない時があります。ですがこの時は「やらなきゃ後悔する」という確信があったので、次の就職先も決めずに、まず退路を断つために辞表を出しました。そうすることで自分を奮い立たせ、次の力強いアクションを起こすことができたのだと思っています。もちろん苦労もありましたが、「やってよかった」という結果につながっています。
この業界では有名な話なのですが、実は世界の多くの映画やゲームの監督の一番の名作と呼ばれる作品は、驚くことにほとんどが35歳のころに作られているんですよ。若い勢いと経験のバランスが、絶妙にブレンドするのがこの年齢ということなのでしょうね。ですので自分の中でピークと呼べるような輝かしい仕事をするために、35歳はその最大のチャンスということになるかもしれません。25歳の学生さんを例に取ると、ピークの仕事を成し遂げるまで、あとわずか10年ですね。夢がある人は、自己実現のために、ぜひどんどんアクションを起こしてください。
好きなことに仕事として夢中で取り組めるのは、とても幸せなことです。これから社会に出ていく皆さんに、素晴らしい仕事が見つかるように応援しています。私自身もまだまだ夢に届きません。これからも挑戦者として、若い人たちに負けないよう、一生懸命がんばります!
取材・執筆:田部井 愛理(たべい あいり)
取材を終えて:
アメリカを拠点にゲーム音響で活躍されながら、「まだまだ私は挑戦者です」と強調されている戸島さんの成長意識の高さと、ゲーム音響に対する強い情熱に圧倒されました。自分のやりたいことや特技を徹底的に伸ばし、自分のフィールドでトップを目指し、オンリーワンを目指して生きる面白さと迫力を感じました。
「自分のやりたいことを仕事としてやっていけるかと悩んでいる時は、覚悟を決めて「退路を断つ」ことも一案。そうすることによって、本気になり、本当の底力が出てくる。そして自分がやっていることに迷いが生じた時は、初心に戻って、何を目的としているのかを見つめ直すことが大事。それによって、スムーズに次のステップに入り、自分の特技を磨くことに集中できる」。
これから失敗したり迷ったりしたら、戸島さんの言葉を思い出し、好きなことを仕事にできるように「挑戦者」としてがんばっていきたいです。